第1回「羽田空港から歩いて出てみよう」
第1章 やめちゃえばいいじゃん
8月16日。機内では31℃と言っていたのに、到着した場所のテレビには「35」の文字。
躊躇。
確かに、この日を迎えるために万全の準備をしてきた。
しかしやり遂げたところで、誰が褒めてくれるわけでもない。
窓の外の陽射しは、そんな私を「バカな事はやめろ」と笑っているようだ。
逃げを打ちたかった。心の中の悪魔が「冬に伸ばしちゃえばいいじゃん」と囁く。
たった一人でやっている事とはいえ、何かしらの理由付けが必要だ。
そういえば、この重いキャリングケースが邪魔だ。
こんなもの持って、これからしようとすることが出来るわけがない。
前日ネットで「空港からホテルへ荷物を届けるサービス」をいうのを見つけ、
一応電話で問い合わせていたのだけれど、もしその窓口に行って
少しでも「難しいですね」だとか「無理ですね」とか言われたら
「あー、やっぱりそうですかー」とか白々しく言いながら、
この計画をあっさり止めるつもりだった。
「お待ちしておりました。桂さんですね?」
「担当の者から、しっかりお届けするようにと言われておりまして」
「ありがとうございました。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
拍子抜けするほど簡単に、いやむしろ素晴らしいくらい丁寧に
荷物を預かってもらえた。もらえてしまった。
ありがとう、JALエービーシーさん。違う航空会社使ってたけどな。
逃げ道はなくなった。自分の手には、計画用に準備された物だけが
つまったリュックだけ。
今まで一度も通った事がない、第2ターミナルと第1ターミナルを結ぶ連絡通路。
エスカレーターではなく、階段を駆け上がる。テンションを高めるように。
500mlのスポーツドリンクを買い、第1ターミナルを出る。陽射しが、やはりきつい。
しかし、私は歩き出す。悪い事していないのに交番の前でドキドキしながら。
タクシー乗り場を越え、待機バスの運転手に変な目で見られつつ。
ターミナルを越えた。腕時計を見る。
午前10時1分。キリよすぎ。ならば、と歩を早める。
羽田空港を歩いて出る。頭にタオルを巻いて、スポーツドリンクを一口、ごくりと。
第2章 ゆかたの帯をとくのはあ・な・た
第1ターミナルを出て、左(方角はさっぱり?)に歩き始めてすぐ。
陽射し容赦なく私を襲う。陰が欲しい、陰がほしいの……っ!
意外と早く陰が現れる。トンネルらしい。急いで入ってみる。
先を見れば光が見える。どうやらそれほど長いトンネルではないらしい。
タクシーやバス、トラックが通過していく。そのかわり人っ子1人ナッシング。
呼吸器に持病がある私。なるべく早く抜けようと少し早足に。
抜けたら階段。真ん中の狭いスロープや標識から、自転車が通ってもいいらしい。
小脇に抱えられるくらいの自転車が猛烈に欲しくなった。だがない。
ところが。階段を上ったとたん、これまで道なりにあった歩道がなくなる。
急に不安になる私。いや、選択肢は一つしかない。
右に、開けた空間がある。そっちに進むしかないのだが……躊躇。
歩き始めてすでに10数分。頭にタオル巻いてリュック背負った汗だく男。それが私。
このまま進めば、超近代的なビルとビルの間を抜けていくことに。
似つかわしくない闖入者である私は、意を決してそちらに進む。
……うわあ、ビルから人が出てきたぁ!たくさんたくさん、老若男女ぉ!
休憩か、早い昼食か。テレビドラマに出てくるようなお兄さんお姉さん方が。
こっち見るなっ!あ、見てない?っていうかわざと視線外してる?
どちらにせよもう後戻りできない。進む!
実際のところ、この辺りが一番不安だった。そもそも道が合ってるかどうか微妙。
だいぶ進んで振り返ってみる。正解と信じるほかはない。
と、自分が歩いてる道は橋にぶつかった。下には先ほど外れた広い道路。
見渡して、ぐるりと回れば下の道に降りられるような気がする。進む。
この「ぐるりと回る」もまた怖い。どんどん道から離れていく怖さというか。
歩道をしっかり歩いているが、すぐ脇のフェンスには「空港関係者以外立入禁止」。
結局道には出られたが、今後の展開がますます不安になる。
合流後の風景。ガラス張りの美しい通路の先に見えるのは、またトンネル。
「あんまり長くなければいいなぁ」と、咳払いを1つ2つしながら入る。
怖えぇっ!空気が悪いのは予想できていたが、単純に車が怖えぇっ!
最初のトンネルでは普通の速度で走っていた車たちがめちゃめちゃ飛ばして進む。
歩道と車道はかなりの段差があり、安心だとは思いつつも単純に「速度の圧力」。
でっかい荷台が数メートル横を猛スピードで通り抜けていくのだからいわずもがな。
さらにこのトンネル、長い長い!早く抜けたくても抜けられない。
「事故でも起きたらどうするつもりだ」と思ってたら、足元にはいろんな破片。
もっと怖くなったので、出口のほうに小走りで進む。
久々に浴びたきつい日差しの中で、抜けてきたトンネルを振り返る。
不思議なのは、破片は結構あったのにフェンスがあまり変形していなかったこと。
実は意外と安全なのか、それとも別の力が働いているのか。さて……。
まあどうでもいいや、2度と通ることはないだろうしー。
閑話休題。トンネルを出て少し進んだところに落ちていたチラシ。
「どうせ脱がせてもらうんだったら最初から裸でいりゃいいのに。暑いんでしょ?」
と、Webエロ作家にあるまじき感想を抱いてしまいました。反省。
チラシを新しいご主人様の手に届かせるべくリリースし、また進む。
高いコンクリの壁が途切れ始め、視界が急に開けてくる。気がつけば川沿いの道。
通過するモノレールが高いところから私を見下ろす。
まだまるでゴールが見えない。見えないどころか自分がどこにいるか分からない。
運の悪いことに、ここら辺りでスポーツドリンクが切れた。
唯一間違いないことといえば、道がただ1本ということだけ。
要は、このまま歩き続けるしかないのだ。
第3章 天空橋で平和を叫ぶ
川沿いのため、いくらかは自分に向かって風が吹いてきている。
しかし気温35度の状況では、その風も熱風。
もはや役目を果たせなくなった頭に巻いたタオルから、滴る汗。
恨めしそうに、その熱風が吹いてくる川を眺めてみる。
コンクリートの堤、荒くアスファルトを敷いた広場、向こう岸の倉庫街。
全く代わり映えしない光景がずっと続いている。
(予備知識を持たず歩く田舎者が、この川が多摩川だと気づくのはずっと後の話)
川の様子を見てみたい気がするが、アスファルトの場所は『関係者以外立入禁止』。
意地で目を凝らすと、少し砂地が見える。海が近いので干潟のようになっていた。
デジカメの望遠をめいっぱい利かせて撮影した写真。
楽しそうに遊ぶ鳥たち。種を越えた理不尽な憤りを押し殺しつつ、前を向いて進む。
今振り返って謎なのだけれど、この『立入禁止』の場所にパラソルを立てて
涼んでいた男女一組がいた。近くに車も見えず正直「どこから来たんだろう?」と
不思議に感じていた。まさか……お仲間(笑)?
もう少し歩いていると、印象的な建物が現れた。
男の子はこういうランドマークが大好きなのである。デカい!赤い!レーダー!
今まで感じていた疲れも忘れ「でっかいなー、かっこいいなー」と眺め歩く。
しかしすぐに飽きて、再び襲ってくる暑さ、のどの渇き、疲労。
黙々と歩いてレーダーを振り返る。
工事看板に掲げられたゼネコンの名前を見て、またニヤニヤする。
普通の人と興味があるところが少しズレている気がする。が、気にしない。
ここまで歩いて、初めて人とすれ違った。前から来た、自転車の中年男性。
疲れた顔を上げてよく見てみれば、今までとだいぶ景色が変わっていた。
この風景だけ見れば、もはや普段と変わりない道路。少し先はもう普通の街並だ。
だがまだ分岐などなくて「よっしゃ脱出!」という手ごたえはない。
もう少し踏ん張って歩を進める。ちっちゃなトンネルを抜け、もう少し歩く。
川沿いには釣り人多数。交差点。たくさんの看板。これはもしや?
お、お、おおおおっ?
オカルト物大好きな私が、一生に一度は見たかったあの「羽田空港の鳥居」!
『平和』と高く掲げられたその赤い鳥居を、ベンチに座って眺める。
どうやら、どうやら歩いて羽田空港を出ることが出来たようだ。
一息ついたものの、達成感よりのどの渇きが気になってしかたがない。
もう少し先に歩く。自動販売機があった場所。
京浜急行 天空橋駅。時刻は午前11時11分。第1ターミナルを出発して、1時間10分。
スポーツドリンクを買い、ふたを開き、一気に飲み干す。
一応の目的地としていた場所にたどり着いた。さて、ここから、ここから?
第4章 運河ー、運河ー、フランケン
ちょりちょりーん、とモノレールか何かに乗ってしまえばいいのだ。
幸い駅は目の前にあるのだ。乗って乗り換えれば多分10数分。
身体は疲れ切っている。さらに汗だく。なのに、なのにー。
振り返れば、羽田空港。名も知らぬ橋を渡った桂大枝3○歳。
逆に、気が楽になったのかもしれない。
「おお、羽田空港歩いて出られたじゃん!イイじゃんスゴイじゃん!」って感じで。
実はもう1つ、(不必要な)自信を深める理由があったのだ。
この日のために事前に手に入れていた、最新兵器。
ソニーのPSP。それに「MAPLUS」というナビゲーションソフトを搭載。
空港敷地内は目印極少で意味を成さなかったが、ここからなら使える。
スイッチを入れ、衛星が現在位置を捕捉する。目的地を入力する。
検索を完了して、表示されたルートと距離。え?え?え?8.7km?
思いもよらぬ長距離に動揺するも、これまで経た道中とはわけが違う。
一応は街中。どこで逃げ出そうとも受け入れてくれるはずだ東京様は。
事実PSPの画面には、第1の目印としてそこそこ大きなホテルが表示されていた。
「うんうん。大通りを観光気分で歩いてりゃいつか着くわな。ダメなら遁走!」
汗だくの体に珍妙な余裕を漲らせながら再び歩き始める。
ところが。とーこーろーがー。
目印ホテルに到着したらあっさり右折。200mほど歩いたところで大通り離脱。
目の前に続いているのは工場に両側を挟まれた道路。狭くもないが広くもない道。
でかい工場は中規模の工場となり、中規模の工場は町工場っぽく変化。
聞こえてくるがしゃんがしゃんという音。気づけば大きな車が通ると怖い道幅。
小さな橋。その下を流れる運河。おおっ、押井守テイスト。
これも「東京」のあるべき光景だなぁ、と少し感動。
どう考えても公共交通機関から離れていく状態。しかし、先程より強い足取り。
やがて工場は少しずつ姿を消し、気がつけば住宅街に。
住宅街といっても、極めて親近感が湧く風景。路地、商店、散歩、公園、子供……。
少しびっくりしたことが。やはりここらへんでも水分補給をしたのだけれど、
ちょっと狭い路地でも、少し歩いていればコンビニが見つかるのだ。
状況的には非常にありがたかったのだけれど「どこから搬入?」みたいな疑問が。
上の写真も、そんな路地にあるコンビニで人心地ついた直後の写真。
車が写ってるので多分問題ないのだろうけど……あ、ウチの地元がまだ田舎なだけ?
いくつかの道を横断して『○○商店街』みたいなところを通過する。
(地名を細かく追っている余裕がなかったのでいまいち。多分大森あたり)
八百屋だったか魚屋だったか、店先に貼ってあったポスターがFC東京。
初めて東京遠征した時も、ホテルの近所にでっかいフラッグ掲げた店があった。
上にシャツ羽織ってるけど、こんな格好で歩いてるんだ桂大枝は。完全アウェー(笑)。
ここまで来ると、大きな道と再び接する機会が増えてきた。
道に落ちたセミの死骸を嫌なほど眺めながら、また歩く。
かなり大きな道に出た。駅もある。ビジホも多い。
しかしここで、桂大枝に最大の危機が襲いかかったのだ!続くっ!
第5章 刑場でドッキリ
自分が歩く大きな道路。反対車線には「平和島」駅。
注意力散漫な私が、疲労した眼で認識した久々の地名。
「おお、競艇場があるところだ!」(そんな知識レベル)。
果たして数分ほど歩くと、とある交差点の左側に見えた競艇場のスタンド。
微かに心地よい機械音も聞こえる。スタンドに見える観客。
お盆休みだというのにやはりギャンブルは盛況らしい。自分はやらないけれど。
しばらくそんな光景を眺めていた私に、突如起こった異変。
羽田空港第1ターミナルから出発し、歩いてきたこの数時間、
水分補給にはかなーり気をつけてきたのだけれど……。
「ん?ん?あれ?おかしいぞおい……え?え?腹痛いの俺!?」
こういう予期せぬ腹痛はかなり動揺。何せ自分のいる場所は見知らぬ土地。
探せばすぐ見つかるだろうが、移動中にヤバイことになる可能性も。
転がる石の如く状況が悪化するマイストマック。ストマックか?
慌てる私が神に祈りつつ(信心ナシ)、とりあえず落ち着こうと縋ったビル。
「お……お?水道局?や、や、やった、お役所さまじゃーん!」
喜んでるのか何なのか分からない感想を残しつつ、速攻で突入。
数分ののち。
全てが丸く収まって、めちゃめちゃすっきりした表情で表の陽光を浴びる桂。
「ありがとう東京都水道局(あとで調べたら大田北営業所)!納税してないけど!」
足取りも軽く、壮大かつ全く無意味な挑戦を再開。
人間の体は現金なもので、出せばすぐ入れたくなる。
道なりのコンビニでまたスポーツドリンクを買い、歩く事数分。
賑やかな声が聞こえる。目の前には楽しそうな家族連れ多数。
しながわ水族館、らしい。木陰にベンチもあったのでしばし休息。
少し「行ってみよーかな」という気持ちも沸いたが、ここは我慢。
この先の道もまだ未知数。まずは目的を果たそうと腰を上げ、また歩き始める。
ナビは大通りから少し離れるとの表示。自分の歩く前に、ちょっとした茂み。
近づいてみると、大きな石碑や看板がたくさん。
どうやら何かしらの史跡らしい。こういうのが大好きな桂はさらに近づく。
まず目に入ってきたのは「刑場」という文字。少し戸惑う。
普通に街中にある。喧騒の近くにある、不思議なほど静かな佇まい。
どんな由来なのか、ととりあえず表示板を見る前に写真を1枚。
カメラを下ろして、はたと気づく。「鈴ヶ森、刑場……」。
半年ほど前に偶然、ネットで鈴ヶ森刑場のことについて調べたことがあった。
『八百屋お七』の話を元に小説を書こうとしていた時期のことだ。
その結果、歴史好きとして興味がある『天一坊』の話も詳しく知り、
結果鈴ヶ森刑場の少し裏暗い歴史も知っていた。
少し心を落ち着かせて、ゆっくりと合掌。少し無遠慮に踏み込んだ自分に反省。
改めて前を向き、また歩を進める。大通りから離れはしたが、基本慌てない。
細くなった道。再び住宅や事務所の間を歩いていく。ビルの陰が心地いい。
歩きながら、ふと左を見る。少し先には、運河。
走って近づく。いかにも東京らしい光景。運河の向こうには、近代的なビル群。
あっ!見えたっ!
本日のゴールとしている、自分の宿泊するホテル。
まだ「近く」ではないが、少なくても「見えた」。
このバカげた計画を始めてすでに4時間と数10分。うん、やり遂げられそうな気配。
もう少し歩くと、ある運動公園の脇を通った。
ここは以前、というか前回冬の上京時、MAPLUSのテストも兼ねて歩いた場所。
という事はもう完全にゴール近く。もう何も迷わず歩く!歩く!
もうがっつりとオフィスビル群の中に。目の前にホテル。
ここでわざと一服。残っていたスポーツドリンクを飲みながら座って休憩。
目の前で堂々と違法駐車し、どこかへ慌てて駆けていく男。
数10秒後に駆けつけ駐車違反証を貼る交通監視員。
戻ってきて頭を抱える男。極めて事務的に処理する監視員。
まるで気にせず車から荷物を降ろしつつ、くすくす笑っている同僚の女性群。
コント?ねぇコント?
さて、と立ち上がり歩き出す桂。多分もう1、2分でこの計画は完了する。
で。実際到着。汗びっしょりな自分。とにもかくにも、ゴール。
『羽田空港から歩いて出てみよう』。半年前にそう決めて、ついに終了。
思い返せば空港の中、スタートする前が一番憂鬱だった気が。
歩き出してみれば、確かに暑いしきつかったけれど、とにかく楽しめた。
「バカな事をする」というのは、やはり桂大枝本人の中で最優先事項のようだ。
距離系は正直あれだから、今度は別の目的を持って歩いてみたいなーと。
(2007年10月15日 了)
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