第8話 好きっていえたなら
人だかりは、玄関前で説明に当たっているリサイタルスタッフに激しくつめよっている。誰一人として、後ろの方に急に現れた若い女二人に気づく人はいない。
魔美はカナミのほうを見る。しっかりと前を向いて、目を輝かせている。
「じゃあ、いってくるわ」
背筋を伸ばしたカナミが、人ごみをかき分けながら前に進みはじめた。すり抜けた人たちから、小さなざわめきが漏れていく。カナミだと気づいたようだが、そのようすがあまりに堂々としているため、だれも大きな声をあげられない。
人ごみの最前列には、芸能マスコミが陣取っていた。やつぎばやにスタッフに質問を浴びせている彼らは、すぐ後ろに迫った蓑田カナミには気づかなかった。
「ちょっと、すいません」
軽い声の主に、記者たちは振り向く。
まず驚いたのが、記者たちの対応をしていたスタッフだった。彼女が普段着を着ていても、すぐに気がついたのだ。
「あ……え……」
何してたんだ、とか早く用意しろ、とかいう言葉はもう出て来なかった。そのスタッフの前に現れたカナミは、その嬉々とした笑顔で玄関を登った。
「蓑田カナミだ!」
「インタビューを取れ!」
突然の怒声が一斉に起こり始めた。カナミの姿を見た報道陣が、彼女の周辺に群がったのだ。心配した魔美が、先ほどのホテルでギャングたちにやったようにテレキネシスを使おうとしたが、カナミはそんな魔美のほうを遠目に降りかえって、ひとさし指を振ってみせた。
「カナミさん……」
魔美は、ふり上げたうでを降ろした。
カナミを囲むマスコミ陣の中から、マイクの先が伸びた。
「蓑田カナミさん、例のギャングとの交際の件、実際はどうなんですか!?」
いきなり核心を突く、そして今までのカナミならすぐに傷ついてしまっただろう質問。
「皆さん……」
皆のほうを向き直ったカナミは、そう言って一息つくと、
「今からステージで、わたしの最高の演奏を見せます。期待してください!」
その発言に、まわりを取り囲んだ人々は思わずあっけにとられたようだった。カナミはそんなことを気にする様子もなく、くるっと体を返してホールの中に颯爽と入っていった。
「お、おい……急いで開演の準備だ!」
「は、はい!」
スタッフたちが、そんなカナミのあとを追いかけていく。記者たちもカナミの次の発言を記録しようと駆け寄ったが、スタッフたちはさきほどのカナミの態度に伝染したかのように、毅然とその前に立ちはだかった。
「これ以上の取材はご遠慮願います!皆さんにはプレスルームにはいっていただいて、終了までお待ちいただきます!」
その声とほぼ同時に、待たされていた観客たちを順序よく入館させる作業も始まった。それまで不満を洩らしていた人たちも、自信に満ちたカナミの姿を見たからこそ、皆が期待に満ちた気持ちで、混乱なく入場していった。
「カナミ、じゃあ今すぐ舞台衣装に着替えるんだ」
リサイタルのプロデューサーは、控え室に入ってきたカナミに、急いで指示した。
「ごめんなさいプロデューサー。わたし、このままで演奏したいんです」
「おい、このままって……」
カナミの格好は、きのうの昼ギャングに連れ去られたままのラフな服装だ。
「お願い。今のわたしには、どんなにきれいなドレスも表現を邪魔してしまうような気がするの。持ってるものを全て出してピアノを弾きたいから、お願い!」
「……わかった。お前の好きにしたらいい」
プロデューサーは、カナミの過去など詮索せず、彼女の才能を買ってこのリサイタルを企画したのだ。カナミの願いを、どうして断れるだろうか。カナミはそんなプロデューサーに無言で、しかし力強くうなずいた。
魔美もまた急いで館内へテレポートした。具体的にどうしようなんて目的はなにもない。とにかく、今から始まるカナミさんの演奏をいろんな人に伝えなければ、と思っているだけだった。
ノートパソコンを抱え、広いロビーを駆けまわる。妙子さんの教えてくれたとおり、電話のモジュラージャックを急いで見つけないといけなかった。
「あ、あった!」
少し先に公衆電話コーナーがある。妙子さんが言ってた「きっとある場所」だ。魔美はあわててその場所に駆けよる。
「……あ〜〜っ!」
そこにはモジュラージャックがあった。そして、腕の中にはノートパソコンもある。そして……ないものもあった。
モジュラージャックと、ノートパソコンを接続するテレフォンコードがない。あれだけ妙子さんと念入りに打ち合わせておいたのに、今朝家をとびだしてきたときに忘れてしまったのだ。
「もう……こんなカンジンなときに!」
魔美は自分で自分に腹を立てていた。一番大事なときに、こんなにマヌケなドジをしてしまう自分。
「どうしよう……今から急いで家に取りにいくしか……」
そんな魔美の耳に、非情なアナウンスが聞こえてくる。
『大変ながらくお待たせいたしました。蓑田カナミピアノリサイタル、まもなく開演でございます』
でも、そのアナウンスと同時に、大きな音も聞こえてきた。ガラス窓をドンドンと強く叩く音。振りかえってみるとそこには、黒いバイクスーツ姿の人。
「妙子さん!」
魔美はあわてて駆けよる。
「あんた、そのようすじゃまたなにか忘れ物したでしょう!」
ガラス越しに妙子さんは、しっかりと魔美のミスを予想していた。
「すみません!あの……電話のコードを……」
「あっきれた!それじゃあなんにもできないじゃないの!」
「すみません、すみません……!」
「しょうがないわね……すぐ近くにパソコンショップがあるから、私がひとっ走り行って来るわ」
「え……?」
「急いでるんでしょ!あなたは私が来たらすぐつなげられるように準備しときなさい、いいわね!?」
「は、はい!」
魔美の返事を聞くが早いか、妙子さんはヘルメットをかぶりすぐバイクにまたがり、颯爽と発進した。
せっかくの妙子さんの好意をムダにしてはいけない。魔美は走って公衆電話のそばに座り、パソコンを起動させ始めた。
「メール送信……っと」
今日もまた、友人たちにメールを書いて送信した。
高畑くんからのメールは、今日は届いていなかった。少し残念だったが、日本に帰ることを彼には伝えていないので、帰ったらすぐメールして驚かせてやろう、と思った。
「さて、少し時間をかけすぎたかな……」
魔美のパパはひとりごとをいってふたたびモニターを見つめる。
美術関連のページ、好きな画家のページ、画材通販のページ……。
一度時計を見る。あと10分ほどで授業が終わる。終われば急いで下宿に帰り、荷物を持って空港へと向かう予定だ。午後2時の飛行機に乗れば、明日には愛する妻や娘と久しぶりに再会できるのだ。
ホールのドアが閉じていく。
「どうするんですか?もう、開演ですが……」
係員さんが、魔美を気づかってくれている。
「あ、はい……あの、友人を待ってるんで……」
「そうですか。じゃあとりあえず、閉めますよ」
ドアは、ゆっくりと閉じた。テレフォンコードさえ届けば、すぐ隣のドアからホールに入って、カナミさんの演奏を誰かに伝えることができる。と、魔美は思っていた。実際は、魔美のパパには何も伝えていないから、この映像が届くのはほとんど不可能なのだが。
魔美はもう一度だけ玄関の方を見た。妙子さんのバイクはまだ見えない。
ホールの中が、今までざわめいていたのに急に静かになった。
パソコンが小さな音を立てて起動する。魔美は、何かを決心して立ちあがり、ハートのブローチを顔の横にかざした。
日曜日だというのに、その少年は学校に来ている。彼の勉強熱心さは知っていたし、決して悪い事をするタイプじゃないので、彼を臨時に教えている先生は、日曜日の情報処理室のカギを安心して渡した。
もちろん目的はインターネットである。まじめだが少し変わった性格の少年を気に入って、用務員のおじさんも彼の隣でパソコンのモニターを眺めている。
「で、ここを2回軽く押すと……ほら、『植木』のホームページという場所が出てくるんですよ」
「へえ……確かに俺の調べたかった植木市のことが書いてあるね。本当にすぐでてくるんだねぇ、『インターネット』ってのは」
「ほんと、すごいですよね。僕も勉強すればするほど感心するばかりですよ……ほかに調べたいこと、ありますか?」
少年はまるで自分がほめられたようにうれしくなって、次の質問をおじさんに催促した。
「えーと、じゃあねぇ……『クラシック音楽』ってのは?」
「え、おじさんクラシックが好きなんですか?」
少年が訊くと、おじさんは照れくさそうに顔を赤くした。
「いや、実はあんまり得意じゃねえけど……音楽教えてるピアノの先生が、俺に勧めるんだよ。向こうがあんまり熱心なもんだから、こっちも少し勉強しとかねえと悪いだろ?いや、それだけの理由だよホント。ほかには別に……な」
おじさんは本当に恥ずかしそうに言った。なんとなく、おじさんが照れる理由がわかった。
「なるほど、クラシックですね……ちょっと待ってください」
少年もなんだかほほえましくなって、顔をほころばせながら検索欄に『クラシック/ピアノ曲』と打ちこんだ。
運が悪いことに、そのパソコンショップは混んでいた。テレフォンケーブルの場所を訊こうにも、店員さんがみんなお客さんの相手をしている。
「ああもう!ぜんぶあの女が悪いんだから!」
その『あの女』のために駆けまわっているのに、妙子さんは見当違いな悪態をついて見せた。
混雑している店内を見まわすと、少し向こうに「インターネットコーナー」と書いてあるポップが見えた。妙子さんは人ごみをかき分けて、そのインターネットコーナーにたどり着く。そこには、妙子さんの姿を見て駆けよって来た店員さんもいた。
「お客さま、なにかお探しですか?」
妙子さんは一度時計を見た。開演時間を少し回っている。しかし、あきらめられない。荒い息を整えながら、店員さんに向かって言う。
「あ、あの……ネットなんかに使うテレフォンコードを……」
ホールの中は、大きな拍手に包まれていた。舞台の上には、なにもない。グランドピアノと、椅子だけだ。その光景が、客席の空中に浮遊している魔美からよく見える。胸に抱えられた、ノートパソコン。手順が間違っていなければ、パソコンのカメラとスピーカーマイクはそのステージ上を捉えているはずだ。足りないのは、電話線だけ。
拍手が一段と大きくなった。ステージの脇から、カナミさんが出てきたのだ。さっき救出されたままの、あの普段着で。少し客席がざわついたが、拍手が小さくなることはなかった。
「カナミさん……」
魔美もカナミさんの姿を見つめる。その時、後ろで扉が開いた音がした。魔美が振りかえると、そこにはやさしい表情をしたフィデルさんがいた。お互い目が合ったのだから、魔美が宙に浮いているのに気がついたはずだけど、フィデルさんは何も驚かずにただ微笑んで、そのままステージのほうに視線を移した。魔美も、同じように再びステージ上のカナミさんを見つめる。
「こんなに心躍っているのは、初めてのピアノ発表会以来ね……」
カナミさんはステージのまんなかでつぶやいた。なにかに満たされるような気持ちで、観客席を見わたす。最前列には、少し歳を取ったけど、昔と変わらない優しい笑顔の両親がいる。大勢の人が大きな拍手で迎えてくれる一番後ろで、子供のようにすがすがしい表情で立っているフィデルおじさんもいる。
もちろん、魔美にも気がついていた。おせっかいでそそっかしいけど、今日の演奏を一番聴いて欲しかった人に似て、心のなか全部が優しい女の子……。
自分のピアノを待ってくれている人みんなに、最大限の気持ちをこめてカナミは深く頭を下げた。そのまま一度、深呼吸し身を起こして、ピアノの椅子に座る。そして何かを想うように瞳を閉じると、何日ぶりかに触れるピアノの鍵盤に指を置いた。
ステージのカナミと同時に、魔美も瞳を閉じる。拍手は止み、もう誰一人物音を立てない。
(お願い、パパに届いて……っ!)
魔美はパソコンのテレフォンジャックに触れて、これまでにないくらい気持ちを集中させた。カナミが指先に力をこめた瞬間、ノートパソコンのEnterキーが、自然に動く。
「わっ!」
パパが驚くと同時に、教室内のいたるところで驚きの声が上がった。一人一人が違うページを見ていたのに、突然ウインドウが開き、見たこともない映像がピアノの曲と共に飛びこんできたのだ。みんながざわめく中、魔美のパパはその映像の中の、ピアノを弾く若い女性を注視した。そして、その女性が誰なのかすぐに気がついて、パソコンのスピーカーから流れてくるピアノの旋律に、自然に耳を傾けた。
少年も、その突然開いたウインドウにびっくりした。
「へえ、もう出たのかい?」
おじさんがまた感心している。そんなはずはない、と思う。まだ検索開始のクリックをしていなかったからだ。
「しかし……今流れてる曲はいい曲だね。専門的なことは分からんけど、なんかこう……心があったかくなるような、なんかそんな曲だ」
少年も、そう思っていた。誰が弾いているのか分からない。なんていう曲なのかも分からない。でもどうしようもなく、心が素直な気分になってくる曲だ。ウインドウがなぜ開いたのかなんて考えるのを思わず忘れて、少年もおじさんと一緒に曲に聴き入った。
「な、なんだ!どういうことだ!?」
店員さんが慌ててレジから飛び出し、展示してあるパソコンに駆け寄った。いつもネットにつなげているパソコンの全部が、急に同じ画面を表示したのだ。
妙子さんもそのパソコンに駆け寄る。
「あの子……」
ちょっとムッとした。テレフォンコードがないなんていいながら、現に画面は蓑田カナミの演奏を映し出している。とりあえず、計画したことは成功したのだ。
でも、その怒りはすぐに消えた。スピーカーから流れてくるピアノ曲が、すごく優しい音色だったからだ。店員さんは相変わらず慌てたままだったが、妙子さんは気にせずその曲に耳を澄ませてみた。
フィデルさんは自分で気がつかないうちに、目から涙をこぼしていた。ギャングなんて商売で生きて来て、無論悪い事だってした。しかし、カナミのピアノの前ではいつだって優しくなれた。そして、今演奏しているカナミは、自分が世話してあげていた頃のカナミじゃない。あの頃よりずっとずっとピアノが好きになったカナミだ。
いつのまにか、隣に一人の黒服が立っていた。組織の中で出世しようとして、勇み足でカナミをさらってしまったあの男だ。
「あ、あのですねボス……わたしは、決してボスに逆らうつもりではありませんで、ただただボスのためにと思って……」
「……いいから、黙ってここから出ていけ。私は今、心の底からいい気分なんだ。その気分をお前に邪魔されたくない。処分の話はまたあとだ」
「は、はい……」
男は出ていく。フィデルさんは、再び目を閉じて、涙を流しながらカナミさんの曲を楽しんだ。
カナミさんは、最高の気分で演奏していた。昨日の夜、自分にはピアノしかないと思い至った時、自然に沸いてきた曲。この曲を弾いていると、今まで思い悩んでいたことなど、ほんのささいなことのように思えてくる。指が弾むように鍵盤を駆けまわる。待ってくれていた人、お世話になった人、お礼できなかった人、そして、自分の気持ちを伝えられなかった人。そのすべての人たちにこの曲を聞かせたかった。
演奏が終わる。そこには、拍手しかなかった。ホールを埋め尽くした観客も、パソコンモニターの前にいるパパや高畑さんや妙子さんも、みんながみんな心から拍手していた。いや、それだけじゃない。魔美の超能力を通じて、インターネットに流されたカナミの演奏を見た人たちみんなが、その曲に惜しみない拍手を送っている。
目の前のモニターに開いていたウインドウが、クリックもしないうちに急に閉じた。しかし教室の中は、今の素晴らしいピアノ演奏を聴いた興奮がまだ冷めていないようだった。音楽に詳しいクラスメートが、今のは日本人女性ピアニストで国際コンクールに優勝した……などと周囲に説明していたが、魔美のパパだけは、あいかわらずにこにこしながら、モニターを眺めつづけていた。
「最高の気分で、日本に帰ることができそうだ……」
月曜日。自分がやったことがムダにならなかったことを新聞やテレビで知り、ホッと胸をなでおろしていた魔美に、またビックリするような出来事が起こった。
「……そうか、やっぱりあれはマミくんのしわざだったのか」
「しわざ、なんてひどい!高畑さんは知らないだろうけど、今回の件はものすごーく大変だったんだから!」
高畑さんが、名月中学に戻って来た。お互いのいろんな気持ちは、ひさびさに逢えたことでぜんぶ吹き飛んでしまった。また、いつも通りの下校風景。
「でもねマミくん。ちょっと今回はハデにやり過ぎだよ。ギャングのボスを相手にしたり、大勢の人の真上に浮かんでみたり……おまけに昨日の夜、妙ちゃんからよくわかんないイヤミをいわれたよ。『あの子の作った貸しは、全部和夫ちゃんに返してもらいますからね』って」
「……ま、妙子さんへのお礼はともかく、ちょっとぐらいは誉めてくれたっていいんじゃない?なんてったって、高畑さんがいなくてもちゃんと物事を解決して見せたんだから!」
肩でつっつきあいながら、魔美と高畑さんはひさしぶりの帰り道を楽しんでいる。
家に近い水路沿いの道にさしかかった時、魔美は突然立ち止まった。
「どうしたの。どこかで、ベルが鳴ってるの?」
高畑さんがたずねる。
「ううん、そうじゃないの。ゴメン、高畑さん。先に帰ってて!」
「え、どうしたのさ?」
「いいから、ね?」
「まあ、いいけど……」
なんとなく納得がいかない表情だけど、高畑さんは自分の家に向かって歩き始めた。
「あ、高畑さん!今夜パパの帰国お祝いパーティーがあるから、絶対家にきてね!」
高畑さんは分かった、というふうに右手をあげて応えて見せた。
「……さて、と」
魔美は周囲を見まわして、誰もいないことを確認すると、少し先の電柱に駆け寄った。
「カナミさん!」
「ごめんね。あいかわらずおおっぴらには歩けない立場なの」
でも、初めて会った時とはぜんぜん違う明るい表情。
「よく考えたら、あなたに一言もお礼をいってなかったの。来日してから、あなたに何度助けられたか。本当に、ありがとう」
「いえ、そんな……」
こっちこそ、カナミさんにお礼をいわなくてはならない。カナミさんが自分の力でがんばってくれたおかげで、自分が一所懸命やれた、ということが実感できたからだ。
「あ、それから……」
カナミさんがバッグからなにかを取り出した。そこには、手紙。
「これを先生……じゃなくてあなたのおとうさまに渡して欲しいの」
そういいながら、カナミさんは魔美の手にしっかりとその手紙を手渡した。
「ごめんね、つまらないことでひきとめちゃって」
「いいえ……カナミさん、これからどうするんですか?」
「うん。昨日両親と何十年ぶりかに一緒に食事して……『まだまだ、がんばって来るから』って約束したの。だからもう一度ヨーロッパに行って、自分自身の力で勉強してくるわ」
「……カナミさんならできます、きっと!」
「もちろん!」
二人は笑い合った。
「じゃあ、また逢う日まで。あなたも大変だろうけど、がんばってね」
「カナミさんも」
手をふりながら遠ざかっていくカナミさんの姿。魔美は、ふいになにか思い出して、その後ろ姿に声をかけた。
「カナミさん、あの!」
「ん?なーに!?」
魔美はなにかをいいかけたけど、その言葉を喉の奥に押しかえした。
「ううん、なんでもないです!」
カナミさんは少し不思議そうな顔をしたが、すぐにまたあの優しい笑顔に戻った。
「それじゃあ、バイバイ」
「お元気で」
再び去っていくカナミさんの後ろ姿。しっかりとした足取り。
まだパパに渡していない、前に届いたカナミさんからのエアメール。どうすればいいのか訊きたかった。でも、もういいかな、と思う。新しい手紙が、今のカナミさんの気持ちに違いないはずだから。
「でも、あのネット中継に関してはリサイタルの主催者も全く知らないらしいわよ。今うちの新聞も懸命に調べてるんだけど。専門家に聞いても、技術的には不可能に近いほど難しいらしくて」
ママが、食卓に料理を運びながらいう。カナミさんの騒動が一段落して、パパが帰ってきた今日、ようやく家に戻って来たのだ。
「そうだろうなあ。ネットにつないでいた多くの人のパソコンで、あのウインドウが開いたらしいし。高度なハッキングっていううわさもある。まあ、そのおかげで、パパはあのすばらしい演奏を聴けたんだけどね」
パパは、なんだかとてもうれしそうな顔でそういった。
「あ、そうそう。パパに、手紙が届いてるわよ」
「手紙?」
「うん。蓑田カナミさんから」
「ほう」
魔美は、さっきもらった手紙をパパに手渡す。パパはその手紙の封を、感慨深げにゆっくりと開いていく。
拝啓 佐倉十朗さま。お元気ですか?
私は今、すごく楽しい気分でいます。
大好きなピアノを弾くことが、なによりも楽しいと気づいたからです。
……。
カナミさんからの手紙を、パパは何もいわずに読み進める。まるで、父親のような表情で。
それを邪魔しないように魔美は立ち上がって、前に届いた手紙を捨てようとリビングの引出しを開けた。
「魔美ちゃん、なにしてるの。こっちに来て支度手伝ってくれないと」
意識したわけじゃなかった。運悪く、気を張っていたときに急にママに声をかけられて、うしろ手に握った手紙の内容が、少しだけ心に伝わってしまった。
好きです。
はっとした。
カナミさんが、自分の進む道に不安を抱いて、何かにすがりたくてパパ宛に送ってきたエアメール。
さっきの判断は、間違ってなかったのかもしれない。誰かにすがることより、自分の力で歩くこと決めたからこそ、カナミさんはあんなにいい笑顔を見せてくれたのだ。
(カナミさん、もうこの言葉はパパに伝えなくていいんですよね……?)魔美は手紙をスカートのうしろポケットに入れて、すぐに食卓へと向かった。
「……追伸 奥さんと娘さんを大事にしてあげてください、か……。あの子も、ちゃんと大人になったんだなあ」
少しだけ思い出に浸りながら、パパがしみじみいう。
「さあ、ひさびさのわが家の食卓だ。めいっぱい食べるぞ!」
「まあ……ゆっくり食べてもかまわないのよ。ごちそうは逃げませんからね……あ、ところで魔美ちゃん、高畑さんは遅いわね」
そういえば、いつもはちゃんと時間通りに来る高畑さんが、まだ来ていない。
「しょうがないなあ……わたし、ちょっと呼んでくるね!」
あわてて駆けだし、勢いよく玄関から飛び出していった娘を、両親は温かい目で見送った。
「……電話一つかければすむことなのに、わざわざ自分で呼びにいく、か」
「あの頃の女の子はね、顔を合わせて話すことがなにより幸せに感じるものなのよ」
「きみも、そうだったのかい?」
「男の子だってそうでしょう」
「まあ、そうだな……魔美も高畑くんも、少しずつ大人になっていくのかね?」
「……もちろん。あんな淡い経験をくりかえして、子供は大人になるものよ」
「ふむ……」
パパは、少しさびしそうな顔をして微笑んだ。
メールソフトの画面をにらみながら、高畑さんは考え込んでいた。
伝えたいことが、なかなか文章にできない。自分に文才がないのか、それとも単に勇気がないのか。
とりあえず、キーをたたいてみる。すぐにひとつの単語が出てきたが、やはり照れくさくて消してしまう。しかし、また同じように悩んで、同じ単語を入力している。
簡単なことだ。今画面に表示されている単語のまま、メールを書けばいい。でもあいかわらず高畑さんはモニターを見て一人でうなっている。
魔美が、高畑さんの部屋にテレポートしたのはまさしくそんな時だった。熱心にパソコンに向かっている高畑さんの後ろ姿を見て、興味をひかれた魔美はパソコンをのぞきこもうとする。
「なにしてるの、高畑さん?」
「わわわっ!」
高畑さんはあわててふりかえり、顔を真っ赤にしながらモニターを隠した。
「どうしたのよ、そんなにあわてて?」
「どうしたのじゃないよ!勝手に人の書いてるものをのぞきこんじゃダメだ!」
「……なーに怒ってんだろ?」
不思議そうな顔をして魔美はいう。
「高畑さん、お食事を用意して待ってるから早く来てよ。忘れてた?」
「いや、忘れてたわけじゃないよ。うちのパソコンでもどうやらインターネットができるらしいから、ためしにつないでみたところだったんだ。今からすぐ支度するよ」
まだあわててる様子の高畑さん。
「まあいいけど。はやく準備してね」
なにげなく、高畑さんがまだ隠しているパソコンのモニターにもたれかかる。
感じてしまった。
カナミさんが小さい頃から、パパにずっといえなかった言葉。
そして、自分もカナミさんと同じ。
「ふーん……」
思わず顔が笑ってしまう。
「な、なんだよ」
そっか、高畑さんも言えなかったんだ。
「しょうがないな……じゃあ、わたしがいってあげるね」
「な、なにを」
「フフフ……」
こういうことは、ちゃんと目を見ていわないとね。
「わたしね、いますごく高畑さんのことが……」
エスパー魔美「好きっていえたなら」 完
「好きって言えたなら」 作詞・作曲/桂大枝 歌/斎藤杏子
好きって言えたなら きみはどんな顔するの
まるい目をもっとまるくして 驚いてくれるかな
ずっと思ってたこと ずっと言えなかったこと
今ここで言っちゃうよ
冗談ならいつでも言える 文句だってね
だってきみはいつも笑ってるんだもん
たまにはマジメな顔をして 見つめてみてもいいんじゃない?
そんなに簡単じゃない すごく自覚してる
でも今言えば なにかが変わる気がする
好きって言えたなら 君はどんな顔するの
まるい顔すぐ真っ赤にして そっぽむくのかな
ずっと思ってたこと ずっと言えなかったこと
きみにだけなんだから
思ったこといつでも言って 困らせたかも
だってきみはいつも笑ってるんだもん
そんなに笑ってるだけじゃ わたしもつられちゃうじゃない
ライバル出現かもよ すごく意識してる
でも今言えば 少しきみに近づける
好きって言えたなら きみはどんな顔するの
まるい目をもっとまるくして 驚いてくれるかな
好きって言えたなら 二人ずっといっしょなの
たった一度の魔法みたい ステキな呪文よ
ずっと思ってたこと ずっと言えなかったこと
今ここで言っちゃうよ
言っちゃうんだから