第7話 メールでなやむMr.A

 春の近い空を、魔美とカナミは速いスピードで軽快に飛行している。

「やば……ちょっと、ふざけすぎちゃったかな」  

 魔美が、腕時計を見ながら不安そうな声を上げた。黒服たちを痛めつけてるあいだに、カナミのリサイタル開演時間まで一時間を切ってしまった。
「いいのよ。もともとわたしが頼んだことなんだから。でも……ひさしぶりにスッキリしたわ!大きな男たちがみんな、あなたの力で風船みたいに飛びまわってるんですもの。こんなに気分がいいのは、何年ぶりかしら!」  

 声を弾ませながら、カナミはほんとうに楽しそうにいった。

「……あとは」
「あとは、リサイタルでピアノを弾くこと、ですか?」
「ええ」  

 少し考えるようなそぶりを見せたが、カナミはすぐに笑顔に戻る。

「考え込むのは、もうやめたの。わたしの心をみんなに伝える手段は、ピアノしかないって気がついたから。人のしない苦労もしたし、汚れた道も通ったかもしれない……」  

 カナミは笑顔のまま続ける。

「でも、ピアノの音は、嘘をつかないと思ったの。伝えようとしていることを心に持って、素直な気持ちでピアノの前に座れば、きっとそのピアノの奏でる音楽は、人の心を打つことができる……いろいろ悩んだけど、そのことにさっき気がついた」
「さっき?」
「ええ。だって、もうダメだって思った時、自然に指が動き出して。そして……あなたが来てくれたわ。聞こえたでしょ、わたしの曲」
「……うん、とっても優しくて温かい音楽が、たしかに!」
「いい曲だったでしょ?」  

 魔美の返事を待たずに、今までで一番素敵な笑顔で、カナミは笑った。魔美もその笑顔につられて、微笑む。

「さ、あんまりゆっくりしてられませんね。ちょっとスピードあげますけど、大丈夫ですか?」
「もちろん。そのかわり、わたしを置いて行かないでよ」  

 二人の影が、少しだけ速度をあげて、あたたかい風のなかを飛び去った。  


 窓の外から、学生たちの声が聞こえる。しばらく休講するのだから、身を入れて勉強すればいいのだが、その男はぼんやりとパソコンモニターを眺めている。

「ジュウロー、指か止まっているよ。故郷の家族のことでも考えているのかい?」  

 声にはっとして、男は振り向く。そこには、にこやかな表情で微笑む情報技術過程の講師がいた。講師といっても、ジュウローと呼ばれた男より、かなり年齢は若いが。

「いやあ、面目ない」
「明日から、しばらくニッポンに帰るそうじゃないか。美しい奥さんと、可愛い娘さんが首を長くして待ってるんじゃ、授業も身が入らないよなぁ」  

 講師の言葉に、教室じゅうが笑いに包まれる。男は恥ずかしそうに頭をかいている。

「さあ、幸せ者は放っておいて、われわれは授業に専念することにしよう。いままで学んできたように、インターネットの世界というものは、あらゆる情報にあふれている。むかし誰かが、この世のすべてのことがらを記録してある『アカシック・レコード』という書物の概念を創作したが、インターネットはまさしくその『アカシック・レコード』のようなものだ。しかしその中には、すばらしい情報もあれば、非常に悪質な情報もある。膨大な量の情報から、得るもののある情報を見つけ出すのは、確かにむずかしい。だからこそ、情報を受ける者の正しい目が必要なんだ」  

 フランスへ留学中の魔美の父 佐倉十朗氏が、本来の目的である絵画の勉強とともに、美術学校の選択科目である情報技術の過程を学んでいるのは、ほんのささいなきっかけだった。ある日、同じように美術学校に留学して来ているアメリカ人青年が『あなたの絵を見て感動したひとが、自分のホームページに感想を載せていたらしいよ』と教えてくれたのだ。  
 自分の絵を気にいってくれた人の感想をぜひ見てみたい。そんな単純な興味だったが、まず自分にパソコンは使えない。まわりにパソコンを使える人間もいなかった。そんな時に、美術学校に最近情報技術過程があることを知ったのだ。  
 もちろん最初は悪戦苦闘の毎日だった。何が何やらさっぱりわからない。きちんと社会生活を営んできた男が、こんなちっぽけな機械のかたまりにいいようにあしらわれている。ものわかりの悪い生徒を持って、若いフランス人講師はいつも困惑していたが、しかしそれでも熱心に教えた。自分より若いクラスメートたちも、彼のチャレンジを応援してくれた。  
 こんな苦労をしたからこそ、初めて自分自身の力でメールボックスを開いた時には、涙が出るほどうれしかったものだ。そして、最初の目的であった自分の絵のファンという人を、ネット内で必死に探した。同じ過程を学ぶ仲間たちも、手伝ってくれたおかげで、相手はやがて見つかる。アメリカ人の主婦。友人に招かれて日本を旅行した時に、その招かれた相手の家で佐倉氏の絵を見たのだという。家族の生活を紹介する個人ホームページのなかで、その絵を『優しい絵』だと表現していた。  
 少女の裸像。派手でもない、地味でもないなんのかわりもない構図なのに、その絵には『優しさ』があふれていた、と彼女は紹介している。  
 うれしかった。急いで彼女にメールを送った。返事もすぐに返ってきて、もちろんいまでもメールの交換をしている。パリとアメリカのあいだの、コンピューターでつながったささやかな出会い。魔美のパパは、それ以来すっかりインターネットにはまってしまった。そしてある日、メールボックスに新しいメールが届いた。日本からの、一通の電子メール。  

 文面をながめて、魔美のパパは思わず微笑んだ。メールは、『彼』からだったのだ。  
 『彼』もまた、インターネット初心者だったのだ。以前から興味はあったけど、なんとなく距離を置いていたらしく、交流学生としてパソコン教育が盛んな中学校に行ったことを機会に、やっと始めてみたようだ。  
 メールも始めのうちは「インターネットはすばらしい」とか「いい情報と悪い情報をちゃんと選択しなければ」なんていう型どおりの文章しかなかったけれど、しばらくすると文面は、あるひとつの内容にしぼられていった。

「マミくんは、元気でやっているんでしょうか?」
「マミくんは、なにか失敗をしていないでしょうか?」
「マミくんは、ご両親が不在でさびしがっていないでしょうか?」
「マミくんは……」
「マミくんは……」  

 これには佐倉氏もにが笑いだ。中学生にしてはしっかりしている子だと思っていたが、こういうことに関しては、なんと不器用なんだろう、と。  
 魔美のことが心配なら、電話の一本でもかけてやればいい。  
 魔美が寂しがっているとおもうのなら、一度でも会いに行ってやればいい。  
 でも彼はそうしない。まだ、気づいていないからだ。  
 なぜ相手のことが心配なのか?どうして相手のことばかり気になるのか?その理由に、彼自身がまだ気がついていないのだ。そしておそらく、彼にこんなにも心配されている、自分の娘も。  

 情報処理の講義では、生徒たちに授業の大半を使わせて自由にネットサーフィンさせている。一時帰国用の荷づくりも終わった。この講義が終われば、すぐに空港へ向かう予定だ。佐倉氏は今日もまた『彼』、高畑和夫くんからのメールを楽しみにしながら、ブラウザを起動させ始めた。  


 リサイタルの開かれる日本公会堂の前には、大勢の人が集まっていた。彼女のファン、マスコミ関係者、そして野次馬。もちろんマスコミ関係者の中には、蓑田カナミのプライバシーを探ろうとしている人間もいるだろう。

「……どうします?」  

 魔美がカナミにきく。カナミ本人より、魔美のほうが気弱になっている。

「もちろん、いくわ」  

 カナミの力強い言葉がかえってくる。

「そうね、どうせなら……ねえ、あの人だかりのまんなかに私を降ろせる?」
「え!?」
「こういうことはね、最初にガツンってやったほうがいいのよ。それに、私自身の勢いづけにもなるしね」
「そ、そういうものですか……」  

 ちょっと前まであんなに落ちこんでいたカナミさんが、いまはこんなに自信に満ちている。

「……それじゃあ、いきますよ」 「OK。派手にたのむわね!」  

 テレポーテーションの目的地は、彼女たちの真下。野次馬や芸能マスコミ陣が殺到している、開演直前の公会堂玄関前!


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