第6話 ユメのなかの旋律

 黒い車は街を抜け、郊外へ向かう直線道路を疾走していた。空から追跡する魔美には、もちろんそのクルマを持ち上げて、クルクルと空中で3回転させることだってできた。しかし、この前の時とは違い、車の中にはカナミさんがいるのだ。危険な目には合わせられない。魔美は慎重に、その車の行く手を追った。  
 まっすぐな道をひた走る黒い高級車、それを必死に追う魔美。そんな状態が、どれくらい続いただろうか。魔美は車を追いながらも、頭の中では別のことを考えていた。思うことは、カナミさんのこと。

「リサイタルは、明日。カナミさんは、ピアノを弾く気になってくれたのかな……?」  

 不安な気持ちのまま、一睡もしないでがんばったネット中継の勉強。苦労して苦労して、なのにカナミさんがやる気になってくれないと、すべてが無駄になってしまう。

『世の中には、無駄なことなんてないさ。ひとは努力した分だけ、きっと前に進めるはずなんだ。それはカナミさんにも、もちろん魔美くんにもいえることだから』  

 誰の声だろう?心の中に響いた誰かの声。いや、魔美にははっきりとわかってる。そう、これは高畑さんの声。いつでも困った時に、あのまんまるい顔でやさしく教えてくれる、あの高畑さんの声。  
 でも、魔美がまだ気づいていないこと。高畑さんの声だけど、高畑さん本人じゃない。魔美はけして遠くのどこかにいる高畑さんの考えをテレパシーで読んだわけじゃない。この声は、魔美本人が自分の心で考えたことだ。

『じゃあ、信じていいの?カナミさんが、自分の意思で歩き出そうとしてるってこと……』  

 高畑さんは何も応えない。それは魔美の心の中も同じ。まだ、なにも答えは出ていないのだ。  
 そんな心のゆらめきが、少しだけ魔美に動揺を与えた。

「きゃあ!」  

 目の前に、鳥の群れが現れたのに、魔美は気がつかなかった。そのまま、その一群に体が突っ込んでしまったのだ。

「テレポート!」  

 あわてて、まったく場所を思い浮かべないままテレポートしてしまう。そこは、どこかのビルの屋上。

「ああ、ビックリしたぁ!」  

 少し息を整えて、すぐに気づく。

「あ、カナミさん!」  

 すぐその場で意識を集中させて車の行方を追ったが、頭にはベルどころか、なにも聴こえてはこなかった。

「ど、どうしよう……!」  

 魔美は、ビルの屋上でただただ困惑するばかりだった。  


 疲れた体を、よろよろと自分の家にたどりつかせた時、魔美はさすがに弱り切っていた。きのうから眠っていないという肉体的な疲れと、カナミさんを助けてあげられなかったという精神的な疲れ。こんなに弱気になっているのは、エスパーになってはじめてだ。

「……」  

 あきらめが悪いのは、高畑さんにもよくいわれたし、自分でもそうだと思っている。でもさすがに、この疲れた体を奮い立たせる気力が、今の自分にないのがはっきりとわかる。  

 ベッドの上にねころがると、やっぱり自然に涙があふれてくる。

「フャン……」  

 そばで心配そうに顔をのぞき込むコンポコも、1回だけ鳴いて、それ以上はなにもいわなかった。ずっとあふれつづける涙をなんとか押さえつけようと、魔美は閉じた瞳の上に両手を置く。そしてそのまま、深い眠りに落ちていった。  

 どこかで見た風景。窓、風にそよぐピンクのカーテン、勉強机、タンスの上の可愛らしいぬいぐるみたち。そうだ、少女時代のカナミさんの部屋だ。
 キャンバスに向かうこちらからは見えない男の人。これもあの時見たように、魔美のパパだろう。ヘタな鼻歌を歌いながら、絵筆を動かしつづけている。  
 そして突然、そこにあの時感じなかった感触が交じっていく。かすかだけど、確かに聴こえる、やさしい旋律。

『……ピアノ?』  

 そう、ピアノの音だ。誰かが、絵を描くパパに向かって、このやさしい曲を演奏している。  
 やさしい。あたたかい。でも少しだけ、せつない。ピアノの独奏なのに、弾いている人のいろんな気持ちが表れている。そして、魔美にはこの曲を誰が弾いているのか、すごく自然に感じ取っていた。  

 目が覚めた。壁にかかった時計の針は、午前10時を指している。日付が変わって、日曜日。カナミさんのリサイタルが開催される日。魔美はゆっくりと起きあがった。

「聴こえる……」  

 目を覚ましたのは、非常ベルが鳴っていたからだ。でも、確かにベルの音に交じって、夢の中のあのピアノ曲も交じっている。こんなことははじめてだ。

「カナミさんが、どこかで……!」  

 目は冴えている。疲れはもうない。そして、時間もない。魔美は身じたくを整えると、すぐに1階に駆け降りる。

「おっと!」  

 体が自然に、テーブルの上に置いていたノートパソコンのほうに向いた。パッとパソコンをつかむと、急いで玄関でお気に入りのスニーカーをはく。

「フャンフャン!」  

 振りかえればコンポコが、きのうとはうって変わった表情でこちらを見ている。その鳴き声がなんだか自分に『ガンバレ!』といっているように、魔美には思えた。

「うん、がんばるからね!」  

 しっかりとうなずいて、魔美は微笑む。胸にノートパソコンをしっかりと抱いて、テレポーテーションガンを自分に向ける。

「テレポート!」
「フャン!」  

 魔美がたった今までいた玄関に向かって、コンポコがもう一度元気に鳴いた。


「おい、あの女の様子はどうなんだ?」
「ああ、今はおとなしいが……なんだかちょっと気味が悪くてな」
「うん?」 「あの部屋に目隠しして閉じ込めてるんだが、あいつベッドに座って、ピアノを弾くような仕草をずっとしてるんだ」
「そりゃ確かに気味が悪いが……まあ相手は世界的なピアニストさんだ。なんか考えがあってのことだろうよ。俺たち一般人には理解できないはなしさ」 「ああ、そうかもな」  

 扉の前では、見張り役の男が2人、そんな言葉を交わしている。扉の中は、カーテンを完全に締め切った暗い部屋。そこの一室に、カナミはいた。男のいっていた通り、カナミはその暗い部屋で、ベッドに腰かけて鍵盤を叩くまねをしている。いや、彼女はまねをしているつもりはない。自分はたしかに、あの曲をピアノで演奏しているのだ。  
 すぐそばで、物音がした。カーペットの床に、なにかが落ちた音。実際は落ちたわけじゃなく、人間が空中から降り立った音なのだが。

「……カナミさん、聴こえましたよ」  

 少女の声。カナミはその声のほうに向かって、にっこりと微笑んだ。

「……やっぱり?きっと来てくれると思ってたわ」
「うん。それじゃあ、行きましょうか」
「そうね。目的地はわかってるわよね。間に合うかしら?」
「もちろん!だってわたし、エスパーなんですから!」  そ

 の声は、今のカナミの気持ちと同じように、自信に満ち溢れていた。  
 時間はないが、そのまま会場に直行してもおもしろくない。

「少しだけ、おしおきしちゃいましょうか?」  

 いたずら心いっぱいの顔で、魔美がカナミに問いかける。

「いいわよ。存分にお願いするわ!」
「よーし……」  

 カナミの手をひいて、魔美は部屋の前の廊下にテレポートした。

「うわあっ!」  

 急に目の前に現れた女2人を見て、見張りの男たちはあわてた。だがすぐに片方の男が、魔美の後ろにいるカナミに気づく。

「て、てめえ、どっから逃げ出した!?」  

 男はそういってカナミに飛びかかろうとしたが、体が1歩進んだところで急停止。そのままクルクルとバレリーナのような格好で回転をはじめる。

「あ、あららららら……っ!?」
「おい、なにやってんだ!」  

 残った1人がそれを抑えようとするが、今度はその男も同じように優雅にバレエを踊り始める。

「な、なんだ!どういうわけだ!?」
「か、体が勝手にっ!」  

 むさくるしい男2人のバレエ。魔美はその前で笑いながら、人差し指をクルクルと回している。カナミもその様子を見て笑っている。

「それっ!」  

 声を合図に、それまで回転を続けていた男たちの体は宙に舞い、そのまま勢いよく廊下の床に落っこちた。目を回した2人は、立ち上がることもできないでいる。

「すごいわね」
「これくらい『おちゃのこバイバイ』ですよ!」
「……?」  

 海外生活の長いカナミには、まちがいを指摘できなかった。

「……まあいいけど、じゃああれは?」  

 カナミの声に振りかえると、廊下の曲がり角から騒ぎをきいて駆けつけてきた黒服の男たちが何人もこちらに向かってくる。

「まかせてっ!」  

 魔美はまた右手を頭の上に高くさし上げた。  
 せっかくの静けさが、外から聞こえるドタバタとした音で台無しになっている。フィデルさんはまた今日も、ホテルの自分の部屋で蓑田カナミのCDを聴いていたのだ。

「……」  

 少し不快な気持ちで、フィデルさんは立ち上がった。ドアを開けると、部下たちがなにやらあわてて廊下を走り回っている。

「6階にいるらしいぞ!」
「いやレストランだ!」
「何をいう、たった今3階にいたぞ!」  

 口々に叫んでいる。フィデルさんはそのうちの1人を呼び止めてきいた。

「おい、これはなんの騒ぎだ……?」
「はいボス!実はラッツォさんの命令で捕らえていましたミノダカナミがいつのまにか逃げ出しまして……」
「カナミを捕らえていただと!?」
「は、はい。ラッツォさんは『ボスの命令だ』とおっしゃっていましたよ……」
「……ラッツォめ」  

 フィデルさんが思いを巡らせていると、突然周囲が騒がしくなった。

「そっちにいったぞ!」  

 声のほうを見れば、確かにミノダカナミが誰かに手をひかれてこちらにやって来る。

「カナミ……!」
「おじさん……!」  

 2人はお互いに気づいた。しかしフィデルさんの目の前で、カナミの姿は一瞬にして消えてしまった。まるで魔法使いがテレポートしていったように。そして、カナミと一緒にいた人物も、どこかで見覚えがあった。

「お、追えーっ!」  

 再びドタバタと黒服たちが走り始める。そんな騒ぎをよそに、フィデルさんは腕時計を見た。午前11時、行くつもりのなかったリサイタルの開演まで、あと1時間。

「……おい、今すぐタキシードと車を用意しろ」
「……は?」
「何度も言わせるな。タキシードと車、大至急だ」
「は、はい!」  

 部下にそう命じると、フィデルさんは自分の部屋に戻り、まるで恋人とデートする前のようにニコニコしながら、念入りに顔の手入れを始めた。


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