第5話 やさしさの決意

 テレポートアウトしたのは、都心の街角。朝の街は土曜日だというのにまだ人影はまばらだった。あたりを見まわしてベルの主を探す。

「う、うう……」
「!」  

 すぐ横の路地から、かすかな呻き声がした。魔美が急いで駆け寄ると、そこには苦しそうにうずくまっている初老の男の人がいた。

「大丈夫ですか!?」
「う、あ……」  

 男の人が振り向くと、魔美は思わず驚いてしまった。白髪のその男の人は、真っ青な瞳で魔美を見つめたのだ。どうやら外国の人らしい。

「あ……えっと、うーん……大丈夫、ですか?」  

 さんざん言葉を探したけれど、結局さっきと同じ言葉しか出てこない。しかし、相手には伝わったようだ。男の人は魔美に向かって何度か小さくうなずくと、ゆっくりと体を起こす。

「すまない……大丈夫、すこし気分が悪くなっただけだよ」
「え……日本語、話せるんですか?」  

 素直な問いかけに、男の人は微笑んで答える。

「ああ、話せるとも。自分の国でちょっと勉強したからね……すまないが、少し肩を借りるよ」  

 魔美の手を借りながら、男の人は立ちあがる。

「ありがとう、だいぶ楽になったよ。しかし、君はよく気づいてくれたね。通りがかる人がいないものだから、少し不安になっていたところだ」  

 まさか自分がエスパーなんていえない。だから、

「え、いえいえ……たまたま散歩中に声が聞こえたから……わたし、すごく耳がいいほうなんですよ!」
「はは、そうかい!なかなかおもしろい娘さんだ」  

 さっきまで青白かった顔にも、少しずつ赤みがさしてきた。笑顔も自然だ。

「うん、大丈夫みたいですね。じゃあ、わたしはそろそろ……」
「いやいや、娘さん!君はいわば命の恩人だ。ぜひともお礼をさせてもらいたい。いいだろう?」
「でも、わたしはお礼なんか……」
「いかんいかん!わたしの国では世話になった人を敬わないと地獄に行くといわれているんだ。どうかわたしに礼をさせてくれ、な?」

 困ったなあ、とも思ったがここまで熱心に頼まれたら断ることなどできない。仕方なく魔美はその男の人に食事をごちそうになることになった。

「日本は想像していた以上にいい国だよ。どんな街角にもこんな立派なレストランがある」  

 青い瞳を輝かせながら、男の人はファミレスのビッグハンバーグを食べている。

「まあ、味はお世辞にも美味いとはいえないがね」  

 名前は、フィデル・ベックさんというらしい。大きい体をしているが、もう60歳を越えているようだ。

「日本には、観光旅行かなにかで来たんですか?」
「いや、観光もかねてのビジネスだよ。たいしたことじゃないんだが、日本のビジネスの相手と話をしにきたんだ。その合間に観光をしようとね」
「うんうん」
「朝からホテルにいるのがつらくなって、散歩のつもりで町を歩いていたんだが、その時あそこでたまたま発作が起きてしまった……なさけないことだが、こんな大きな体をしてちょっとした病気を患っていてね」
「……あの、よくあんなふうに苦しくなったりするんですか?」
「ああ……体が丈夫なのが若い頃からの自慢だったんだが、最近はどうもな。もう年寄りだ」  

 今まであんなに元気だったフィデルさんの表情が、窓のそとを向いて急に曇っていく。

「わたしは音楽が大好きなんだが、最近は耳まで弱くなっている。大好きな趣味まで奪われそうなのだ。ああ、どうしたものか……」  

 大きなため息をついて、フィデルさんがうなだれる。それにつられて、魔美も知らずに悲しげな顔になっていたようだ。フィデルさんが視線を上げ、急に笑顔になる。

「いかんいかん。女性にそんな顔させてしまうのは、紳士として失格だった。すまない、許してくれ」  

 おどけた表情でフィデルさんは魔美を笑わせる。

「さあ、もう病気の話はやめよう。せっかくこんなチャーミングで優しい女性と食事をしてるんだ。暗い話題ではもったいないからな」
「チャーミング!?」  

 そんなこといわれたのは、いつぞやの時以来久しぶりだ。さすが、ヨーロッパの人はレディを扱うのが上手い。

「わたしの知人にも優しくて美しい日本人の女性がいてね。彼女が奏でるピアノの音で、わたしは何度も心救われたものだよ……今回の来日も、また彼女のピアノが聴きたいという理由も、実はあったんだ」

 今度はまるで初恋真っ最中の少年のように、頬を少し赤らめてフィデルさんは微笑んでいる。魔美にも、それがとてもほほえましかった。

「で、もう逢えたんですか?その女の人と」
「いや、まだだ……実は、彼女のいる場所すらわたしは知らないんだよ」
「そうなんですか……」
「ああ。日本にいることは間違いないんだが、そこからがまったくわからない……」
「きっと、また逢えますよ」
「ん?」
「フィデルさんが体に気をつけて、これからもずっと元気で長生きをすれば、その女の人とも、きっとまた逢えると思います!」  

 魔美の真剣なまなざしに、フィデルさんはまた笑みを浮かべた。

「ああ、そうだろうね。その通りだ!」  

 その瞳は、夢見る少年のような輝きをたたえていた。

「ありがとう。おかげで元気になったよ。こんなおじいさんに付き合わせて悪かったね」
「いえいえ、こんなことならいつだって呼んでください!」
「呼んでくださいって……ほんとに君は不思議な子だ。困った時に呼んだら、すぐに飛んできそうな気がするよ」
「あ、まあ、それは……」  

 フィデルさんがあまりに的確なジョークを言うので、魔美はちょっとあわててしまう。

「それじゃ、また。気をつけてお帰り」
「はい!フィデルさんもお元気で!」  

 二人はファミリーレストランの前で手を振りながら分かれた。魔美は、朝からいっぱいのおなかをさすって、眠たげな目をこすりながら、路地裏から自宅に向かってテレポートした。  
 フィデルさんは、可愛い女の子と過ごした時間を思い返しながらにこにこと道を歩いていたが、しばらくして自分の宿泊しているホテルの前にたどり着くと、急に引き締まった顔になった。ホテルの玄関には、フィデルさんを迎える黒服の男たちが、それこそ数十人はいる。

「ボス、おかえりなさいませ」  

 男たちが口々にいってフィデルさんを出迎える。  
 フィデルさんはロビーに入ると、その黒服の男たちのなかから一人を手招きで呼んだ。

「は、なんでございましょうか、ボス?」
「……あのあいさつを止めさせろ。わざわざ日本まで来て、組織のしきたりを通す必要はない、いいな?」
「は」  

 指示に従って男が皆に目配せすると、黒服の一団はすぐに散り散りにどこかへ行ってしまった。

「それではボス。ほかに指示は?」  

 男がフィデルさんにたずねる。

「……わたしはいま非常に気分がいい。そしてこの気分を誰にも邪魔されたくない。だから午後からの仕事の予定まで、誰もわたしの部屋に近づけるな」
「は」  

 フィデルさんは男にただそういって、エレベーターでホテル最上階の自室へ向かった。

「……ふう」  

 部屋に入ったフィデルさんは、そのままソファに座り込んで、オーディオのリモコンスイッチをONにした。たったいま街で出会った少女のように、優しく可愛らしい日本人少女のCDを聴くためだ。手元のテーブルには、そのCDのジャケットが置かれている。
『KANAMI MINODA』……。その音楽を聴いているフィデルさんの表情からはしだいに険しさが消えていき、またあの優しさが戻ってきていた。  

 ロビーではさきほどの男が、数人の黒服を集めてなにやら指示していた。

「……いいか、自分たちが出世したいのならば、あのミノダカナミという娘をもういちどボスのもとへ連れてくるんだ」
「し、しかし、このあいだみたいに車が浮くのはゴメンですぜ。この国にはどうやら魔法使いがいるようで……」
「バカ、寝ぼけたことを言うな。お前らがそんなふぬけだから追いつめていたあの女を逃がしてしまうんだ……まあいい、あの女の居場所はこの俺が突き止めた。今からすぐにこの場所に行ってあの女を捕まえて来い。そうすれば、ボスからの褒美は思いのままだ」
「は、はあ」  

 黒服たちの返事は頼りない。

「いいから行け!いいか、ツヅレヤホテルだ!そこにミノダカナミはいる!すぐに行くんだ!」  

 男の強い口調に、数人の黒服はあわてて外へと走って行く。

「まったく、根性のない連中だ……まあいい、ボスの探してるカナミを連れてくれば、俺の地位も……フフっ」  

 男は、ホテルのロビーでひとりほくそえんでいた。

「どんなに年をとっても、フィデルさんみたいに『恋する気持ち』ってあるものなのね……ね、どう思うコンポコ?」
「……」  

 コンポコは皿に盛られているアブラゲを食べるのに必死で、それどころではないらしい。

「もう!ロマンチックじゃないんだから」  

 魔美はキッチンのイスから立ち上がって、部屋へと階段を駆け上がる。ベルで中断された『お昼までの睡眠』を実行するためだ。

「お昼まであと1時間半、まあ全然寝ないよりマシかな……」  

 きのうから何度したかわからない大きなあくびをしながら、あと数歩で魔美は自室のベッドに倒れこむはず、だった。  
 突然立ち止まり、腰に両手を当てて、ひとつため息。そう、また非常ベルがどこかで魔美を呼んでいる。

「……これも、エスパーのお仕事なのだ!……か」  

 自分で自分を奮い立たせて、魔美は胸を探る。今登ってきた階段を駆けおり、急いで靴をはく。顔のわきでかざしたテレポーテーションガンから放たれたビーズは、すぐ壁にぶつかって、廊下の床に弾んだ。

「ミノダ カナミだな……?」
「……」
「一緒に来てもらおう。われわれだって手荒なマネはしたくない。しかし、これがボスの意思なんだ。さあ……」  

 カナミは、昨日の夜あるひとつの決心をした。魔美にいままでのことを全部話したという心軽さもあったかもしれない。  
 いまはただ、ピアノを弾こうと思ったのだ。リサイタルの会場に行けば、マスコミにも追いかけられるだろう。その他の好奇な視線にも耐えなければならないだろう。でも、今の自分には大好きなピアノを弾くことができる場所が確かにある。そしてそこで弾かなければ、両親にも、初恋の相手にも、手助けしてくれたボスにも感謝することができないと思ったのだ。行方をくらませていた非礼を主催者にわびて、とにかくピアノの前に立ちたい。そう思って、カナミは身を隠していた安ホテルを出てきたところだ。しかし、そんな思いとは裏腹に、カナミはあのボスの組織の男たちにすぐに取り囲まれてしまった。

「さあ、来い」  

 頑強そうな男が二人、カナミの両腕を捕らえた。そしてあたりを見まわし、目撃者がいないことを確認すると、そのまま素早い動きで止めてある車にカナミを押しこんだ。車はすぐに、猛スピードで走り出す。

「……わたしを、どうする気?」
「さあな。われわれは上から、お前を連れて来いと命令されただけだ。ボスが逃げられた怒りにまかせてお前を殺すかもしれない、と上の連中は言ってたが……」  

 男がすごみをきかせてカナミにいった。カナミは無言だった。
(……昨日まで、好奇の目から逃れることばかり考えていたけど、今は違う。わたしには、ピアノしか無いんだ。ピアノの音色で、両親やおじさんに感謝し、そして先生に……。だから、絶対に会場に行かなければならない!)強い決心をい抱いたカナミは、なんとかこの場から逃げ出そうと必死に思い巡らせていた。  

 奇妙な音を残して、魔美がテレポートアウトする。ベルの発信地はこのあたりのはずだ。急いであたりを見まわしてみる。

「……あ!」  

 少し先の車道を、黒塗りの高級車が猛スピードで去って行った。車には見覚えがある。この前カナミさんを追い回していた、あの車だ。

「じゃあ、カナミさんが!」  

 魔美は素早く空中に飛びあがり、その車をめいっぱいの速度で追った。魔美もまた、カナミさんにどうしても明日のリサイタルでピアノを弾いてもらいたいのだ。


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