第3話 すれちがいの心で
何度も振りかえって、やがて女の人は足の速度を落としていく。そして、小さな川の河川敷にやって来ると、もう一度だけ辺りを見回して、その河川敷の鉄柵に体を預けた。
「……ふう」
しばらく走って、さすがに疲れたらしい。ため息をひとつつく。まさか空中から先ほどの少女が見ているなんて思わないで。
魔美はそこから少し離れた場所にゆっくりと着地して、同じように鉄柵に寄りかかる。少し集中すると、その鉄柵から漠然としたイメージが手先に伝わってくる。伝導テレパシーだ。
「……ん?」
ほわーっとした真っ白な空間に、またそれもぼわーっとした影が浮かんでいる。コートの彼女は、なにかを思い浮かべようとしているようだ。
ぼんやりとした影が少しずつはっきりしてくるのと共に、彼女の心の声も聞こえてきた。
『先生……先生……』
彼女は心でそう呼びかけている。やがて、その空想の中の風景もおぼろげに見えてきた。
窓、風にそよぐピンクのカーテン、勉強机、タンスの上の可愛らしいぬいぐるみたち。ごく普通の、恐らく小学生ぐらいの女の子の部屋だ。そして、その部屋の中央に……。
(え、キャンバス……?)そこに見えたのは、間違いなく絵を描くためのキャンバスだった。そのむこうに、誰かが座っているのも見える。キャンバスが後ろ向きに見えるということは、その座っている誰かが、想像の中の彼女をモデルに絵を描いているのだ。魔美が、パパのモデルになる時に見える風景とほとんど一緒だった。
彼女がその人物に呼びかける。
『……先生、その絵あとどれくらいで完成するんですか?』
向かいの人物が答える。
『そうだなぁ、あと10日っていうとこだな。モデルがよかったから、いつもより早めに出来上がりそうだ』
『そうですか……すみません、うちの父が変なこと頼んじゃって』
『いやいや。君のお父さんには美大の学生時代からいろいろお世話になっているし、それに僕は売れない画家のタマゴ、汚いアパートで花瓶や果物を描いているより、よっぽど絵の勉強になるしね』
『絵の、勉強……』
少しさびしげな声。しかし、絵を描く人物は気がつかないらしい。
そのまま時間がたって、あまり心地のよくない歌が聞こえてくる。魔美が何度も聞いたことのある、あのヘタな鼻歌。
魔美は確信していた。
『ちょっといいか。邪魔するよ』
部屋のドアが開いて、中年の男の人がはいってくる。その姿を見て、キャンバスの向こうの人物が立ちあがった。
(やっぱり……!)そこにいたのは、まちがいなく魔美のパパだった。現在よりだいぶ若い姿。でもたしかに魔美の父親である佐倉十朗だ。
『あ、蓑田先生!お邪魔しています』
『いや、いい。気にしないで続けてくれ……ほう、だいぶ進んだみたいだな』
『はい、お嬢さんが協力的で、ずいぶん早く完成しそうです』
『そうか……おいカナミ、これでお前がヨーロッパに行っているあいだ、父さんや母さんはさびしい思いをしないですみそうだ』
『もう……!』
『でも、本当にすごいよカナミちゃん。向こうの有名なピアニストに見出されて、留学するんだろう?』
『先生の絵だって、すごく上手いじゃないですか!留学だって、先生なら……』
『いやいや。僕みたいなレベルじゃ、有名な画家に目に止まる機会がないし、自分で留学しようにもお金がない。コツコツと頑張るしかないよ』
『そんな……』
『まあ、ともかく。留学は来月初めだ。佐倉、それまでには絵を完成させてくれよ』
『わかりました!』
そう言ってパパはふたたびキャンバスに向かう。その様子を見て、邪魔をしないにカナミの父が部屋を出て行く。また、あの見慣れた風景だ。静かに、ただキャンバスに筆を走らせる音だけ聞こえる。カナミはその様子をじっと見ているだけだ。でも、その視線が、たまらなく切ない。
(そうか……なんとなく分かった)魔美は、心の中で思う。直感、といってもよかった。
「好き、だったんですね」
自然に、言葉が出た。伝導テレパシーを使っているうちに、知らず知らずのうちに彼女に近づいていたようだ。コートの女性 蓑田カナミは、気づいて魔美の方を見たが、もう逃げたりはしなかった。
「……もう16年も前の話よ。わたしは小学生で、先生は美大を出てしばらくの売れない画家。恋愛なんて成立しないわ。でも、もしかしたら……」
「……?」
「『初恋』、だったのかもしれないわね」
そう言ってカナミはサングラスを外し、魔美のほうを見て微笑んだ。
「あの頃が、人生で一番楽しい時期だったわ。ピアノもどんどん上手くなってたし、そのことで周りのみんなが喜んでくれた」
「……」
「でも、それからは全然だめ。いいことなんてなにもなかった」
「……だって、有名なピアニストの人に見出されたって……」
「ううん……確かに留学はしたわ。わたしも、前から尊敬していた音楽家からの話に、子供ながらすごく喜んだことを覚えてる。当時はだいぶ騒がれたわ。『天才少女、ついに音楽の本場へ!』ってね」
カナミの表情がどんどん暗くなっていくのを、魔美は辛い思いで見ている。
「でもね、向こうに渡ってからすぐに、わたしは極度のスランプに陥ったの。ホームシックなのか、それとも他の原因なのか……とにかく、全然ピアノが弾けなくなった。早く直したかったけど、あせればあせるほどよけい弾けなくなっていったわ」
気持ちとともに、わずらわしくなったのか、カナミは被っていた帽子も脱いでしまった。ニュースやワイドショーで見た、蓑田カナミの顔だ。
「それから、どうなったんですか?」
「はじめは、彼も熱心に教えてくれたわ。『君には才能がある、頑張ればきっとまた上手くなるさ』って。でも、それが2年ほど続いた時、わたしは彼の屋敷を追い出されたの。『君にかけた大金がまるで無駄になったよ』なんて言われてね」
つらいことを振り返るために、わざと軽い口調でしゃべっているようだ。それが余計に魔美の心を締めつける。
「しばらくはわたしを援助してくれる人がいたわ。わたしを利用しようとしていたのかもしれないわね。でも、それも長く続かない。結局わたしは10歳そこそこで、遠いヨーロッパの地で一人ぼっちになっちゃったわけ……つらかったわ。何より一番つらかったのは、大好きなピアノに触れられないことだった」
「……」
「おとなしく帰っていれば、それですんだのかもしれない。でも、帰ろうとするたびに、父さん母さんや先生の顔が浮かんだの。意地もあったんでしょうね。『絶対有名になって帰ってやる!』って思ったわ。そんな時、今騒がれているマフィアのボスに拾われたの。以前どこかの演奏会で、わたしのピアノを聴いたことがあったらしくて。わたしも、もうスランプは脱していると自覚していたから、その時はとにかくピアノを弾きたかっただけで」
少しだけ魔美はカナミの表情をのぞき込む。でもその顔には、後悔の色は感じられなかった。
「むしろわたしには、それまでの数年間より彼らの中にいたほうが快適だった。素晴らしい演奏をすれば、ちゃんと祝福してくれる。そして、さらにわたしの技術を上げるために、名の通った指導者もつけてくれたわ。おそらく、それからの10年間でわたしのピアノの腕は格段にあがったでしょうね」
その時初めて、カナミの表情が後悔に曇るのを、魔美はみつけた。
「……でも、マフィアの中で上手くなればなるほど、表舞台でその腕を発揮する機会はなくなっていく。いつのまにか、わたしも24になっていた。腕には自信がある。もう一度表舞台に立つには、今しかないと思ったの」
「それで……」
「そう。なにも言わずに、マフィアを飛び出したわ。そしてその年の国際ピアノコンクール予選に強行出場……。あのコンクールは、経歴なんて一切関係ないから。で、そのままあれよあれよでグランプリをとっちゃった……できすぎよね」
カナミが少し冷めた様子で笑う。自信と、葛藤が複雑にまじっているような乾いた笑い声だった。
「……今にして思えば、せめてわたしを拾ってくれたマフィアのボスにだけは、コンクールに出ることを言っておけばよかったと思うの。彼は心から音楽を愛していた。裏でどんなに悪いことをやっていたかもしれないけど、わたしにとっては優しい音楽好きのおじさんだった。だから、素直に話していれば……なんて、虫がよすぎるかな。実際、わたしの身を狙っているのは、彼の組織の人間だもの」
「じゃあ、あの黒い車の男たちは……!」
「そう、マフィアの人間よ。運が悪いことに、ボスもいま日本に来てるらしいの。そして、あなたが助けてくれた時みたいに、何度も命を狙われたわ」
そういってカナミが、心からのため息をついた。
「……もう限界かもね。組織を裏切ったのは事実だし、このままリサイタルを強行すれば、大勢の人の迷惑になるかもしれない。わたし一人が我慢すれば、誰も傷つかない」
カナミは魔美のほうを振り返って、無理に笑顔を作る。
「わたしはただ、父と母、それに……先生にピアノを聴いてもらいたかっただけなのにね……ありがとう、話を聞いてくれて。こんなこと、マスコミには話せないもんね」
うちひしがれた魔美を残して、カナミはふたたびサングラスと帽子を身につけて、歩き始めた。そのカナミの後ろ姿に、魔美はかける言葉が見つからなかった。
とぼとぼと、それこそ彼女に似合わない重い足取りで自分の家へと向かう。魔美はなさけない気持ちでいっぱいだった。超能力を持ってたって、こういうときにはなんの役にも立たないのだ。そして、これからどうすればいいのかもわからない。こんなときいつも助けてくれた人物のことが、魔美の心の中でどうしようもなく大きく感じられる。
なにも考えつかないまま、魔美は家の前へとたどりつく。そしてそこに、さらに心を乱される人物を見つけることになる。黒雪妙子、高畑さんの幼なじみで、なにかにつけて魔美に対抗心を燃やす女の子だ。
「黒雪さん……」
「あら、景気の悪そうな顔しちゃって、なにかあったの?」
「べつに、なにもないです」
魔美は妙子さんを避けるようにして、玄関へ向かおうとした。
「ふーん、そんなに邪険にしていいの?あなたが知りたがってるはずの、和夫ちゃんの話なんだけど」
「高畑さんの!?」
思わず振り返ってしまう。
「そう。和夫ちゃんが今どこでなにをしているか……知りたいでしょう?」
しょうがないけど、それは本心だ。魔美は無言でうなずいた。
「……知りたい」
「フフッ、そうでしょう。じゃあ教えてあげる。実は和夫ちゃんね、今わたしの卒業した中学校に来てるの」
「黒雪さんの学校!?」
「ええ。あなたや和夫ちゃんが通ってる学校より先進的な学校よ。校舎もキレイ、敷地は広い、それにパソコンだってたくさん導入されてるんだから!」
「ぱ、パソコン……?」
きょとんとした魔美のようすを見て、妙子さんは思わず笑い出す。
「アハハハッ、あんたパソコンも知らないの!?ダメねぇ、そんなんじゃ和夫ちゃんの相手はできないわよ。だって今、彼がいちばん興味を持ってるのはパソコンだもの」
「……」
「また運がいいことに、わたしちょっと前からパソコンに興味があって、少し勉強してたおかげで、和夫ちゃんにつきっきりでパソコンのこと教えてるの。ほら、和夫ちゃんって頭いい割にどんくさいところがあるじゃない。最初は電源の入れかただってわかんなかったのよ。でも今は、わたしのおかげでインターネットまで……あれ、ちょっとどこいくのよ!」
「もう、いいですか。わたし、忙しいんであなたのくだらない話につきあってる時間はないんです!」
「なによ、逃げるの!」
妙子さんの声を背中に聞きながら、魔美は玄関ドアを閉めた。出迎えに来たコンポコにあいさつもできず二階にあがり、そのままベッドに倒れこんだ。
「ふう……もう、ただのじまん話しに来ただけなの!?こっちはもっと大変なことで悩んでるっていうのに、時間を無駄にしちゃったじゃない!」
ベッドでつぶやきながら、魔美の心はどんどんふてくされていく。
「ああもう、くやしいくやしいくやしいっ!もう知らない、高畑さんもカナミさんもパパもママも知らないんだから!」
そのまま枕に顔をうずめて、ふて寝を決めこむことにする。いやなことを忘れるのは、ぐっすり寝ることが一番なのだ。
「もうなにがあっても夕食の時間まで起きないんだから。たとえ電話が鳴ったって、たとえ呼び鈴が鳴ったって……」
つぶやいた瞬間、下の玄関の方から呼び鈴の音が聞こえた。
「……」
しらんぷりを決めこもうとするが、呼び鈴はあきらめることなく魔美を呼び続ける。
「……もう!」
魔美はしかたなくベッドから起き上がって、階下へと走り下りた。
「はいはい、今開けますよ〜!」
玄関ドアを開けると、郵便やさんが小包を抱えて立っていた。
「あ、いらしたんですね。フランスからの小包です。受け取りのはんこを……」
「え!フランスからの小包!?」
魔美は慌ててはんこを用意して、小包を受け取った。差出人は当然佐倉十朗。そして魔美は、フランス語で書かれた内容物を読み取れないままリビングへ小包を持っていく。
タテ35センチ、ヨコ25センチ、厚さ3センチぐらいの直方体の小包。パパからの届け物なので、魔美はちょっと小さめのスケッチブックかなにかだと予想した。
そこに、電話のベル。小包を抱えたまま電話へ走る。
「はい、もしもし」
瞬間、魔美の耳にすごくうれしい声が聞こえてきた。
「お、マミ公か!元気か?」
パパもひさびさの娘との会話に、声を弾ませている
「どうしたのパパ、電話なんてほんの何度かしかかけてこなかったのに」
「ん、ああ。そっちに小さな荷物を送ったんだが、届いてるか?」
「え!荷物って、これのこと?小さいスケッチブックぐらいの大きさの……」
「ああ、そうだ!無事に届いたか。あんまりぞんざいに扱うなよ。中は精密機械なんだから」
「スケッチブックじゃないの?」
「ああ、開けてみてもいいぞ。でも、壊すなよ」
「壊さないわよ!」
パパの同意を得て、マミは電話口に座り込み、包装紙を勢いよく破り始めた。受話器から聞こえる音で、パパは魔美が乱暴に包みを開けていることに気づく。
「お、おい……もう少していねいに開けてくれよ」
パパもそんなことをいって、魔美が聞くとは思っていないのだが。
やがて、緩衝材に包まれた灰色っぽい物体が現れる。続けてそのプチプチ緩衝材を破ると、なかからやはりグレーのもの。
「……これ、なに?」
「うん、ノートパソコンだ」
「またパソコン!?」
さきほど妙子さんからうんざりするほど自慢されたパソコンという言葉に、魔美は過剰に反応してしまう。
「なんだ『また』って」
「あ、ううん、なんでもない!……ふーん、これがパソコンなんだ」
「ああ、こっちの授業で必要ってことになって、あわててこっちの電機屋で買ったんだが、実は学校にもあることがわかったんだ。だから自分で買ったほうをこんど家に帰った時に使おうと思ってな。そっちに送ったんだ」
「ふーん……」
「うん、あんまり興味がないみたいだな。その機械はすごいんだぞ。一応最新型で、小さなデジタルカメラだってついてる。そのカメラで撮った写真を、Eメールに添えて送ったり、動画をリアルタイムで世界中に送信することができるんだ!」
ちんぷんかんぷん、だった。
「Eメール?リアルタイム?」
「あー、マミ公にはむずかしすぎたか。Eメールっていうのは、簡単にいえば手紙みたいなもんだ。電話線を伝って、相手のところに届く。リアルタイムで動画が送れるっていうことは、うーん……国際中継のテレビカメラを持ってるようなもんだ。このカメラで撮った光景を全世界で同時に大勢の人が見ることができる」
「うーん……わかったようなわからないような」
「ま、パパもちょっと前まではまったくちんぷんかんぷんだったんだがな。最近やっとEメールを使うことができるようになって、そうそう!このあいだ高畑くんが……おっと、これは秘密だったな」
「ん!高畑さんがどうかしたの!?」
「いやいや!なんでもない……とにかくマミ公、そっちに帰るのは来週のはじめになるが、それまで我慢するんだぞ。ママも忙しいってわかってるんだから、あんまり心配かけるんじゃないぞ」
「はーいパパ、おみやげ待ってるからね〜!」
「まったく……じゃあな」
なんだかんだいいながら、最後は優しいパパの声になって電話は切れた。
「……そっか、来週のはじめか」
少し足取りが軽くなった気がする。
「あ!カナミさんからの手紙のこと、知らせるの忘れちゃった……」
魔美はリビングに戻って、カナミからの手紙とノートパソコンを一緒の場所に置いた。
カナミさんの心の闇は大きい。なにか自分が力になってあげられることはないか。魔美はまた頬づえをついて考え込んでしまった。
「高畑さんがいたら、なんていってくれるだろ……?」
つぶやきが、誰もいない夕焼けのリビングに小さく響く。カナミのリサイタルは、しあさってに近づいていた。