第1話 春のウララの……

 目の前の窓の外には、青い空。3月もなかばの、少し春めいた青空。はじめは勉強をするために机に向かったはずだったが、彼女はいつのまにかシャープペンシルを鼻と唇にはさんで弄びはじめている。
 そのシャープペンシルがカツンっ、と机の上に落ちた。でも、彼女は拾わないでいる。

「ん、んん〜っ!」

 全身のねむけを追い出すように、両手両脚をいっぱいに伸ばす。そして、

「は、あ……」  

 小さなため息。ふだんの雰囲気から似合わない、ちょっと切ない響きのため息だった。心配なのか彼女の飼い犬が、彼女のそばに駆け寄って顔を覗きこむ。

「……コンポコ、おいで!」
「フャン!」  

 素早くひざの上に飛び乗った飼い犬に、彼女は優しくキスをした。いつもの様子だと安心したのか、飼い犬は舌で彼女の頬を舐めかえしている。  

 いつもそばにいてくれたひとが、そばにいない。

「魔美ちゃん、いる?」  

 ドアの向こうから声がした。

「あ、ママ!」  

 魔美は椅子から立ち上がった。すぐにドアを開ける。3日ぶりに見る、優しいママの顔だ。

「言ってた仕事、もう終わったの?」
「……ううん、まだまだかかりそうだわ。今日は、資料を取りに帰ってきただけ。それに、魔美ちゃんの様子も心配だったから」
「わたしはもちろん大丈夫よ。お洗濯だって、お掃除だってちゃんとやってるもの!」  

 自分の胸を、魔美は大げさに叩いて見せた。ママはにが笑い。娘の自信に満ちた声とはうらはらに、洗濯や掃除が行き届いていないことは、部屋を見渡せば分かる。でもそんなことまで強がって見せる娘が、母親には微笑ましく思える。

「あら、じゃあゴハンはどうしてるの?ママが出発する時、『材料を買いこんで、自分でお料理を作るんだから!』って張り切ってたけど」

 すでに台所の惨状を知っているママが聞いてみる。

「あ、ああゴハンね。今は外で食べてるの。だって、ちゃんと料理を覚えるためには、いろんなお店の味を研究しとかなくっちゃ」
「ふーん、そう……」  

 ほんと、強がりなんだから。ママはおかしくて仕方なかった。

「あ、そうそう。忘れるところだったわ。ハイ、パパからお手紙!」  

 ママが手に持っていた手紙を、魔美に手渡した。パリからのエアメール。差出人は『佐倉十朗』、絵の勉強のためフランスに留学している、魔美の父親からだ。

「ね、開けてもいい!?」
「いいわよ。ママにも聞かせてね」  

 急いで封を開ける。あせって封筒が破れたりしたが、そんなのは気にしていないようだ。

「えーと、なになに……『拝啓 元気か?マミ公、ママに手を焼かせていないだろうな?』だって!」  

 手紙には、学んでいる絵画学校が百年前から建っている古い建物だということ、初めて過ごす冬が思いのほか寒かったこと、喫茶店のコーヒーが美味しいこと、そして町に日本車が少ない(当たり前)こと、などが書かれていた。

「……それから、『追伸 4月のはじめに画廊の主人さんと個展の打ち合わせのため』……ママ!パパ、4月はじめに一度帰ってくるんだって!」
「ほんとなの!?」  

 ママも、その思わぬ知らせに心から嬉しそうな表情になる。

「そっかあ、パパが帰って来るんだ……」  

 魔美も、もちろん嬉しい。なんてったってパパと会うのは、パパが日本を出発して以来半年ぶりだからだ。

「帰ってきたら、いっぱい美味しいものを用意しておかなくちゃね」
「うん!よーし、わたしもママに負けないくらい美味しいもの作るんだから。やっぱりフランス料理がいいかな?……あ、パパはフランスに行ってるんだっけ!」  

 母娘はお互い笑い合った。やっぱり嬉しい。

「……あ!」
「どうしたの、ママ?」  

 慌てた様子で時計を見たママが、急に立ち上がった。

「たいへん、もうこんな時間だわ!同僚との待ち合わせに遅れちゃう」
「大変なの?今度の取材」
「ええ、国際ピアノコンクールグランプリを受賞した『蓑田カナミ』が、帰国直後に突然失踪したものだから、うちの編集部は彼女を探しておおわらわなの。TV局の芸能レポーターたちと現場でけん制し合ったりしたり。彼女の行きそうな所をリストアップしていた資料を取りに帰って……」  

 脱いでいたコートを羽織りなおして、ママは急ぎながら言った。

「だから魔美ちゃん、お仕事がもうしばらくかかると思うけど、戸締りと火の元には注意しておいてね!」
「はーい。ママ、お仕事がんばってね!」
「わかったわ。魔美ちゃんもね」  

 ママは階段を駆け足で降りていった。しばらくして、玄関ドアが閉まる音がする。

「あんなにあわてちゃって……ま、ママだから心配ないか」  

 再び、パパからの手紙を手に取ってみる。海外の切手を貼っているだけで、パパがすぐ近くにいる気がしてくる。そして、ほんの少しの寂しさが心に浮かぶ。

「4月はじめ、か」  

 パパが帰って来ないのは、しかたないこと。絵の勉強がすごく大事なことは自分にも分かる。でも、でも高畑さんは……。

「あーん、ダメダメ!暗くなってちゃ、魔美らしくないのだ!」  

 自分で自分に言い聞かせながら、魔美は立ちあがった。

「なにはともあれ、腹ごしらえでもしますか。ね、コンポコ」
「フャン!?」  

 情けないような、驚いたような声を出して、コンポコが階下へと飛び出して行った。

「なによ、もう」  

 ちょっと不機嫌になりながらも、空いたおなかを満たすためコンポコについて階段を下りようとした。

「……あれ?」  

 下り始めた何段目かの足元に、ひとつの紙片がある。手紙らしい。パパからのエアメールにママは慌てて、いっしょに届いたこの手紙を落としてしまったようだ。

「しょうがないなぁ」  

 ゆっくりとそれを拾ってみる。宛名、佐倉十朗様。裏返して差出人を見る。筆記体だ。

「Kanami.Minoda……かなみ みのだ……どこかで聞いたような」  

 手紙をもてあそびながら、キッチンに到着。テーブルにその手紙を乗せて、インスタントラーメン用のお湯をコンロにかける。いろいろ味付けをしてみたくなったけど、ここはガマン。お湯が沸くまで手持ち無沙汰なので、テレビのスイッチをつけた。日曜日のお昼どき、TVではファミリー向けの情報番組が放映されていた。

「……なわけですが、人気の絶頂で突然の失踪騒ぎ、いったい彼女にどのような心情の変化があったのでしょうか?」  

 世間であまり評判のよくない芸能レポーターが、早口で何事かをまくし立てている。

「あ、さっきママが言ってたピアニストのことかな?」  

 興味を持って注視すると、画面にはその失踪したピアニストの写真が名前と共に映し出されていた。若く繊細な感じの美人、名前は……。

「蓑田カナミ……え、うそ!」  

 急いでテーブルの上の手紙を見なおす。かなみ みのだ。カナミ・蓑田。

「なんで、なんでこの人がパパに手紙を!?」  

 どうしよう。パパに電話しようか。でもなるべく連絡しないようにしてるし、ママも忙しいし……そうだ、高畑さんなら!

「……あ、ダメなんだ。高畑さん、いないんだ」  

 お湯が沸き始めているのにも気がつかないで、魔美は手紙を持ったまま、さっき自分の部屋で感じた、いいようのない寂しさを再び感じ始めていた。  


 相変わらず目覚し時計どおりには起きられない。でも、パパもママもいないからしかたなくのそのそとベッドから起き出す。コンポコに油揚げをあげて、トーストをくわえたままで家を飛び出す。高畑さんと一緒に登校しなくなって、毎朝この調子だ。


「でも、遅刻はしなくなったもんね!」  

 ささやかな自信をつぶやきながら、魔美は学校へと向かう。

「おはよう、マミ!」  

 どうやら同じく朝寝坊したらしいノンちゃんが、魔美に声をかけた。魔美と並んで駆け足で走る。

「おはよう、ノン!」
「ねえねえ、マミ知ってる?サチと竹長くん、受験の時一緒の進学校受けるつもりなんだってさ!」
「ほんとに?名月高校には行かないんだ」
「どうやらそうらしいのよ……くーっ!サチの奴わたしやマミを放っておいて、恋に生きる道を選択したんだわ!」
「なにいってんの、ノンだって例の彼とまだ付き合ってるんでしょ。見たわよ、このあいだ町のレコード屋さんで一緒のところ!」
「あ、あははは……そ、そんなんじゃないわよ!彼とはともだちで……そんなこといったらマミだって高畑くんと……あ!」  

 慌てて口をつぐんで、ノンちゃんは魔美のほうを見た。魔美は、普段どうり笑っている。

「さ、もうすぐチャイム鳴っちゃうよ、ノン!」  

 気にしてないのかな、いつものマミの顔だけど……。ノンちゃんはとにかく、そのことに触れないでおこうと思った。  
 パパがフランスに行って、時間的にはすぐだった。名月中学と、都内の別の中学との交換授業が決まったのだ。両学校から5名ずつ、成績優秀な生徒がお互いの中学を訪れて、特色を学び合う。それ自体はさして珍しいものではないが、問題は、その『成績優秀な5名』に、高畑和男さんが選ばれちゃったことにある。  
 運の悪いことに、5名の生徒を選ぶ直前の定期テストで、高畑さんは風邪をひいてしまっていた。いつものように2・3問間違うことができず、クラスでトップ、いや学年でトップを取ってしまったのだ。  
 それにもうひとつ、日頃あまり目立たない高畑くんを選ぶのに諸先生方は渋ったが、その中に強く高畑くんを推す先生がいた。彼と魔美の担任、水谷先生だ。

「成績優秀なだけの生徒を選んでも、得るものは少ないと思います。でも、彼のようなおもしろい生徒を選ぶことが出来れば、学校にとってもいいことが多いと思うのです」  

 水谷先生に買われていることも知らず、少々の後悔を魔美に話しながら、高畑くんはその話しを受けることにした。

「だからいいかい、マミくん。超能力を使う時はよーく考えてから使うんだ。テレパシーを受けた時も、テレポートする時も、サイコキネシスを使う時も、その他のことも常に慎重に行動するんだ、いいね?」
「わかってるって、高畑さん!」  

 相変わらず元気のいい魔美を見ながら、ちょっとにが笑いをした高畑さんだった。その顔だけが、今の魔美によく思い出される……。

「……おい佐倉、佐倉!」
「ふ、ふへ?」  

 目を開けて見上げれば、水谷先生の困った顔。まただ。また居眠りしちゃった……。教室のみんなが笑っている。

「あのなぁ佐倉、いちおうお前だってもう少しで3年生だぞ。少しは危機感を持ってだなぁ……」  

 もうすぐ春、窓の外には暖かい風が流れている。やがて訪れる春には、なにか新しい出来事が待っているのだろうか。


「ただいまー!……って、だれもいないか」
「フャン!」
「あ、コンポコ!」  

 飛びついてきたコンポコに、ただいまのキス。

「……あ、こんなことしていられないんだ。さあ、べんきょうべんきょう!」  

 どたどたと、制服を脱ぎ散らかしながら階段を登っていく。

「フャンフャン!」  

 それをコンポコがたしなめるが、そんなことに魔美は関知しない。部屋についた途端服を着替え、とりあえずは勉強机に座る。  
 が、その姿勢はやっぱり長く続かない。また、シャープペンシルを鼻先でもてあそび始める。

「……ん!?」  

 感じる。急き立てられるような、体全体が少し圧迫されるような感覚。なんだかすごく久しぶりの気がするが、確かに誰かが、自分を呼んでいる。

「フャン?」  

 コンポコが魔美に抱きつき、身構える。

「いっしょに、行く?」
「フャン!」
「よーし……!」  

 ベッドに下に隠しておいたスニーカーを履くと、すうっと自然に机のブローチに手がいく。ハート型をしたブローチ。顔の横にかざして、コンポコを脇に抱え、ボタンにちょっと力を込める。

「テレポート!」  

 次の瞬間、魔美の体は青空の下に躍っていた。少し暖かい空気が頬を優しくなでていく。薄くなったセーターも、今年初めて着けたミニスカートも、全然寒さを感じさせない。コンポコも気持ちよさそうに空中散歩を楽しんでいる。
 ボタンを押すごとにビーズが弾けて、ベルに近づいて来る。少しづつ気持ちがしまっていく。  
 パッと、視界が変わった。ごく普通の住宅地の路地。しかし目前に、黒塗りの車に猛スピードで追いかけられている女の人の姿が見えた。すごく切迫したベルが迫ってきた。

「あ、危ない!」  

 黒い車がスピードを上げた。女との距離が狭まる。

「えーい!」  

 魔美は手の先を黒い車に向ける。黒い車はスピードを止められ、フワリとまるで紙飛行機のように空中に浮いた。車内で慌てる男たちの姿が、魔美からも見える。

「なに、どういうこと……?」  

 追われていた女は、思いもよらぬ光景に呆然としている。それはそうだ。目の前に、何トンもあるはずの黒い高級車が浮いているのだから。

「それぇ!」  

 指先を動かして、黒い車を何百メートルか先の空き地に誘導する。そして魔美自身はそれを続けながら、いまだ呆然としている女の後ろにゆっくりと着地する。

「さ、もう少し逃げなきゃ!」  

 車を遠くに降ろしたとはいえ、車はすぐにここに戻ってくるだろう。

「え、あ、はい……」  

 突然現れた少女に腕を引かれ、思わずうなずいてしまった。魔美と一緒に再び路地を駆け出す。

「大丈夫ですか?ケガはないですか?」
「え、ええ。大丈夫」  

 現実に急に引き戻され、再び荒い呼吸を始めた女は、魔美の元気さに引っ張られるように必死に走っている。しばらくして魔美の耳には、あの車のエンジン音がかすかに聞こえてきた。このままなら追いつかれてしまう。

「しょうがないか……」  

 魔美は少し考えたが、決心して全身に力を込めた。同時に、魔美と女の体が道から少し浮き上がる。

「あ、あれ、どうなってるの!?」  

 驚きながらも、女はその浮遊に身を任せるしかない。しっかりと魔美にすがりついたままだ。やがて二人は、先ほどまで車が浮いていた高さまで浮かび上がった。遠くから、あの車がけたたましい爆音を立てて迫ってきた。停止した車から何人か男たちが飛び出して辺りをうかがったが、姿が見えないとわかるとすぐにいずこかへと走り去った。

「もう大丈夫かな。さあ、下りましょう」  

 フワフワと落ち着かない速度で、二人は地面に着地した。

「……ふう」  

 その瞬間、女の人は地べたに座り込んでしまった。かすかに震えているようだ。魔美はその女の人を、やっとゆっくり観察することができた。だいぶ暖かくなってきたのに、茶色の厚めのコート、サングラス、長い髪を隠す帽子。

「いったいどうしたんですか?さっきの車に追われていたようだけど」  

 声をかけられ、女は魔美の方を仰ぎ見た。何かを言おうとしたが、すぐに顔をそらす。

「あなたには、関係ないわ」
「でも……」
「構わないで!」  

 女は先ほどまでの気弱さを振り払って、気丈に立ちあがった。

「助けてもらったことには感謝してるけど、これ以上のことはあなたには関係のないことよ。それじゃあ」  

 何事もなかったように女の人は歩き出した。

「なーにあの態度。せっかく助けてあげたのに!」
「フャンフャン!」  

 コンポコの同意を受けて少し気が晴れた。

「まあいいか……さ、コンポコ。帰ろう」
「フャン!」  

 再びテレポーテーションガンを自分に向けて発射する。  
 魔美とコンポコの姿が、また早春の空に消えた。


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